私たちは生涯で、何回さくらを見るのか【ブラッドベリ1000日チャレンジ#0170】


レイ・ブラッドベリさんが、「クリエイティブになるには、三種の読書を1000日続けよ」と仰っていたということで、短い物語(短編小説)、詩・俳句・短歌・歌詞、論考と三種類のテキストを毎日読みます。そして、何を読んで何を感じたかを、備忘録的に記録しています。

【短編小説】夫を訪ねる/リディア・デイヴィス ○
離始の話し合いをする男女。そういう状態だからなのか、ちぐはぐなコシュニケーションを繰り返している。また女性は、独りになっても、周囲と上手く距離がとれずにいる。この何もかも失敗する感じは、身にしみてよく分かる。少しネガティブすぎるかもしれないが、生きるとはこんなものだよなとも思う。

【詩・俳句・短歌・歌詞】さくら/茨木のり子 ◎
題名を見て、さくらの美しさの詩かなと思ったが、毎年決まった期間しか花を咲かせないことから、人の生き死にについての内容であった。もしさくらを見た回数を数えたら、年齢より少なく、自分の場合は30~40回くらいと、それ程多くないことに改めて気づかされる。そして、さくらが散る姿を見ることで、「死こそ常態/生はいとしき蜃気楼と」わかるという。

【論考】思い悩むあなたへ/池田晶子 ○
何度か読んで、段々と分からなくなってしまったようだ。「私はこの自分がいまここに存在するというこのことが、どのような膨大な量であれなんらかの数量に換算し得るとは全く信じていない」という言葉に、つきるのかもしれない。存在とは謎であり、数量では表せず、言葉でもとらえ切れず、いつも不思議として立ち現れてくるのであろう。


イプセン【『一日一文 英知のことば』から学ぶ#144】


【5月23日】イプセン:1828.3.20~1906.5.23

物を書くとは、いったい、どういうことを言うのでしょうか? 近ごろになってやっとわかったのは、書くというのは、もともと見るということだ、ということです。ただし、——いいですか——見られたものが、作者がそれを見たのときっちり同じ形で、読者のものとなるように見ることです。しかし、本当にそれを生き抜いたことだけがそう見え、そうなってくるのです。しかも、それについて書くことを生き抜くということこそが、近代文学の秘密なのです。

原千代海『イプセンの読み方』岩波書店、2001年より

【アタクシ的メモ】
「書くというのは、もともと見るということだ」というのは、書く前の前提条件としてよくわかると感じた。ただ、後半部分の記述は、日本語としてあまり成立していないと思うし、そのため、正直意味がわからないでいる。


考え始めれば、世界の不思議に気づくはず【ブラッドベリ1000日チャレンジ#0169】


レイ・ブラッドベリさんが、「クリエイティブになるには、三種の読書を1000日続けよ」と仰っていたということで、短い物語(短編小説)、詩・俳句・短歌・歌詞、論考と三種類のテキストを毎日読みます。そして、何を読んで何を感じたかを、備忘録的に記録しています。

【短編小説】完全に包囲された家/リディア・デイヴィス ○
「完全に包囲された」とは、一体何のことであろう。原文は分からないが、「包囲」だけでは、それがポジティブなのか、ネガティブなのかはっきりしない。しかし、「家に帰りたいと女は思った」というくらいなので、きっとネガティブな包囲なのだろう。そして、帰りたい家がもう存在しないことが、一番ネガティブなのかもしれない。

【詩・俳句・短歌・歌詞】のぶ子/鈴木章 ○
「のぶ子」が48回登場し、「書けば書くほど、悲しくなる」で終わる詩。読み手にとって「のぶ子」と名前を見ても、当然、具体的な人物像は浮かび上がってこない。ただの記号、固有名詞である。だが作者にとっては、大変に特別な人物であり、悲しみの要因になるくらいなのだろう。自分も似た経験があるから、身にしみる。

【論考】考えなければ始まらない/池田晶子 ○
そう、考えなければ始まらないのである。そして、考え始めれば、当たり前に思っていたことが、いかに驚くべき不思議だったかに気づくはずだと筆者はいう。「考える」とは、多くの人がよくする「思い悩む」とも違っているとも指摘する。しかし、振り返ってみると、学校で勉強は教えてくれるが、考えることはきっと教えないのであった。


コナン・ドイル【『一日一文 英知のことば』から学ぶ#143】


【5月22日】コナン・ドイル:1859.5.22~1930.7.7

ここに医者らしいタイプの紳士がいる。だが、どことなく軍人ふうのところもある。だから軍医にちがいない。顔はまっくろだが、手首が白いところを見ると生まれつき黒いわけじゃない。とすれば、熱帯地方から帰ったばかりだということになる。顔のやつれているのを見れば、だいぶ苦労した上に病気までしたことがわかる。左手にけがもしている。動きがこわばってぎごちないからだ。イギリスの軍医がこんな苦労をした上に、けがまでした熱帯地方というのはどこだろう。言うまでもなくアフガニスタンだ。これだけつづけて考えるのに、1秒もかからなかった。(『深紅の糸の研究』)

『シャーロック・ホウムズの冒険』林克己訳、岩波少年文庫、1985年、解説より

【アタクシ的メモ】
論理的な思考だけで、事態を解明していくというのは、個人的にどうしてもリアリティにかけると思ってしまう。様々な事柄で、選択肢が限られた時代ならいざしらず、現代においては、机上の空論、ご都合主義に感じてしますのだ。


恋を見たことある?【ブラッドベリ1000日チャレンジ#0168】


レイ・ブラッドベリさんが、「クリエイティブになるには、三種の読書を1000日続けよ」と仰っていたということで、短い物語(短編小説)、詩・俳句・短歌・歌詞、論考と三種類のテキストを毎日読みます。そして、何を読んで何を感じたかを、備忘録的に記録しています。

【短編小説】母親たち/リディア・デイヴィス △
とても短いからというだけでなく、小説(ストーリー)というよりも、エッセーのような内容、どんな人でも母親がおり、そして母親あるあるが述べられ、つねに周囲から見られて、語られると終わる。エッセーみたいと書いたが、エッセーなら成立しているかもしれないが、小説としては要素が不十分に感じる。

【詩・俳句・短歌・歌詞】小さな恋の物語/寺山修司 ○
「恋を見たことある?」という質問から始まる。改めて聞かれると、詩に書かれた通り、恋を見たことはないのである。形も、色も、匂いもないのだ。恋はどこかに存なしているのだろうが、目に見えたり、物理に知覚することはできない。この詩ではおばけにたとえているが、それくらい目に見えないものは力強いのだろう。

【論考】人生は量ではなく質/池田晶子 ○
「死は言葉としてしか存在しません」。筆者が言う通り、死体から「死」を取り出せないのだ。「生命は有限であるからこそ、価値がある」とも語る。死を忌避して、遠ざけるのではなく、死とは何かを、自分の頭で考える必要があるのだろう。永遠の命などないのだから。


ドビュッシー【『一日一文 英知のことば』から学ぶ#142】


【5月21日】ドビュッシー:1862.8.22~1918.3.25

美の真実な感銘が沈黙以外の結果を生むはずがないのは、よく御存知でしょうに……? やれやれ、なんてこった! たとえばです、日没という、あのうっとりするような日々の魔法を前にして、喝采しようという気をおこされたことが、あなたには一度だってありますか?(「クロッシュ氏・アンティディレッタント」)

『ドビュッシー音楽論集』平島正郎訳、岩波文庫、1996年

【アタクシ的メモ】
人が真に美しいものに触れると、言葉を失い、沈黙せざるを得ないということのようだ。それは正しいと思う反面、大きな感動が何かの言葉や行動を、強く引き出すこともあるように思う。


「快適に生きる」と「よく生きる」の違い【ブラッドベリ1000日チャレンジ#0167】


レイ・ブラッドベリさんが、「クリエイティブになるには、三種の読書を1000日続けよ」と仰っていたということで、短い物語(短編小説)、詩・俳句・短歌・歌詞、論考と三種類のテキストを毎日読みます。そして、何を読んで何を感じたかを、備忘録的に記録しています。

【短編小説】W・H・オーデン、知人宅で一夜を過ごす/リディア・デイヴィス ○
とても短い短編小説。彼(=W・H・オーデン)は、寝むる際、恐らく一般的な上掛けだけでは物足りず、他人宅のカーテンやじゅうたんを必要としてしまう。その強迫観念的な行動の理由は、ほとんど説明されない。寒いというが、 じゅうたんをひっぺがし、掛けるのは尋常ではなく、奇妙な行動の真意は不明なままストーリーは終わってしまうのだった。

【詩・俳句・短歌・歌詞】たし算/寺山修司 ○
詩の中で示されるのは、数学のたし算と、生き物や事柄、物のたし算。確かに数学では、たった一つの数字の解答しか導きだせない。リスと木の実や、ぼくときみのたし算だったら、その答えは、数字では表現できないだろうし、結果としてはかけ算のようになるだろう。

【論考】考えることは驚きから/池田晶子 ○
いくつも気になる文言があったが、生命が手の及ばない不思議だったから価値があり、自由になれば価値ではなくなるという件は、非常に現在的な問題を指摘していると思った。また、「快適に生きる」と「よく生きる」は違うというのは、いつもの池田節ではあるが、ハッとするのだ。


バルザック【『一日一文 英知のことば』から学ぶ#141】


【5月20日】バルザック:1799.5.20~1850.8.18

パリはまことに大海原のようなものだ。そこに側鉛を投じたとて、その深さを測ることはできまい。諸君はこの海洋をへめぐり、それを描きだそうと望まれるだろうか。それをへめぐり、かつ描くことに諸君がいかに精魂をこめようと、またこの大海の探検家たちがいかに大勢で、いかに熱心であろうと、そこにはかならず未踏の地が残り、見知らぬ洞穴や、花や、真珠や、怪物や、文学の潜水夫からは忘れられた前代未聞のなにかが残ることだろう。

『ゴリオ爺さん』(上)、高山鉄男訳、岩波文庫、1997年

【アタクシ的メモ】
世界は未知にあふれている、ということだろうか。併せて、観察者である人間の限界を示しているのかもしれない。


なぜ長生したいと思うのか?【ブラッドベリ1000日チャレンジ#0166】


レイ・ブラッドベリさんが、「クリエイティブになるには、三種の読書を1000日続けよ」と仰っていたということで、短い物語(短編小説)、詩・俳句・短歌・歌詞、論考と三種類のテキストを毎日読みます。そして、何を読んで何を感じたかを、備忘録的に記録しています。

【短編小説】義理の兄/リディア・ディヴィス ○
正体不明な「義理の兄」。誰の兄なのか、どこから来たのか、いつか出ていくのかも、わからないという。姿もほとんど見えず、最後には湯気のようになってしまい、はたき落とし、掃き出し、拭き取られてしまう。何かの暗喩なのだろうか。ただ、単なるなそなぞのようにしか読めないのである。

【詩・俳句・短歌・歌詞】あなたへの手紙/寺山修司 ○
本来手紙は、送り先や伝える相手がいなければ、成立しないものではあるが、あて名のない手紙を書き、その返事も自分で書いたという。そして、それは愛の手紙だった。状況は理解できるが、「ぼく」の意図や目的は、上手く理解できないでいる。愛を感じる対象が、あってこそだと思うからだ。

【論考】長生き方歳?/池田晶子 ○
なぜ人は長生きしたいと思うのか? 生きている時間の長短は、重要ではないと思う。池田さんが言う通り、「死によってこそ生は輝く」、「死を思って生きられる毎瞬のほうがはるかに充実しているはず」ではないだろうか。ただ生きていることで、幸福感は生まれないと思っている。


西田幾多郎【『一日一文 英知のことば』から学ぶ#140】


【5月19日】西田幾多郎:1870.5.19~1945.6.7

回顧すれば、私の生涯は極めて簡単なものであった。その前半は黒板を前にして坐した、その後半は黒板を後にして立った。黒板に向って一回転をなしたといえば、それで私の伝記は尽きるのである。しかし明日ストーヴに焼くべられる一本の草にも、それ相応の来歴があり、思出がなければならない。平凡なる私の如きものも六十年の生涯を回顧して、転た水の流と人の行末という如き感慨に堪えない。(「或教授の退職の辞」)

『西田幾多郎随筆集』上田閑照編、岩波文庫、1996年

【アタクシ的メモ】
西田幾多郎さんといえば、『善の研究』だと思うし、実際に読んで、いくつもスリリングな記述があったと記憶しているので、そちらからの引用でよかったのではないか。