ぬすむ【盗む】


私は大学生になると、早速アルバイトを始めました。自分のオートバイを買おうと思ったからです。時には、バイトを三つくらい掛け持ちし、寝る間を惜しんで働いたりもしました。学生の本分とかけ離れてしまっていたかもしれませんが、一年が経ったころには60万円を貯めることが出来ました。

正に汗と努力の結晶である大金を握り締め、私はバイク屋さんに向かい、カワサキのゼファーを購入しました。ネイキッドといわれる何の飾りもないオートバイで、バイクらしいバイクです。初代の仮面ライダーが乗っていたバイクのよう、というと少しはイメージがわくかもしれません。

このオートバイを手に入れ、私は子供のようにウキウキし、毎日のように乗り回しました。思い立ったら、時間を問わず飛び乗って、近隣の県まですぐに走り出したりします。あっという間に、新しい世界、珍しい風景に連れて行ってくれるたのです。

長期の休みには、友人と計画して北海道を一周したり、能登半島を訪れたり、九州まで行って、阿蘇ややまなみハイウェイを楽しんだりもしました。私の学生時代は、またその頃の思い出は、このゼファーとともにあったと言ってよいでしょう。

しかし、バイクと一緒に暮らしていると、いいことばかりではありません。信号を見落とした車に出会い頭にぶつけられたり、自分でこけてしまうこともありました。それによって、怪我をし痛い目にあったりしたのです。

そして何より一番辛かったことは、バイクを盗まれてしまうことでした。車体すべてを盗まれなかったとしても、鍵のシリンダーを壊されたり、シートなど一部のパーツを盗まれてしまうことがあるのです。私が所有していたゼファーは、特に盗難の対象になりやすい車種だったので、幾度となく盗難や盗難未遂にあいました。

正確な回数は記憶していませんが、数年間で10回弱はあったと思います。ひどい時には、岐阜の大学に通う友人を訪れ一泊だけして翌朝帰ろうと思ったら、鍵穴をばっくりと破損させられていました。修理に出して、直るまでの一週間足止めをくったこともあります。

こうした盗難や未遂が何度もあり、突発的で、安くない修理代がかさみました。学生でそれほど金銭的余裕のなかった私は、最終的にオートバイを手放さざるえなくなりました。自らの本意ではなかったのですが、廃車の手続きをとるしかなかったのです。

「盗みや万引きは犯罪です」という言葉を聞くことがあります。もちろん、盗難は明らかな犯罪ですからやめてほしいと思いますし、法治国家ですから秩序やルールは守ってもらわないと困ります。

ただ、私のような実際に“盗まれた人間”からすると、金銭的な負担だけでなく、私の気持ちや思い出を壊され、奪われたようで、それが何より悲しいのです。また、これからの未来ももみ消されたように感じました。盗んだ人は、利己的な軽い気持ちなのかもしれません。でも盗まれた方は、その行為によって大いに振り回されてしまうのです。

常習的に盗む人は、そんな被害者の過去や未来を考えたり、人の思いを想像できないからこそ、盗難という行為が出来てしまうのかもしれません。ある人の想像力の乏しさが、悲しみや不幸を生み出し、周りの人たちに押し付けられてしまうのです。逆から言えば、私は盗まれるという悲しい経験を通して、人が想像することの大切さを身にしみて実感することになったわけです。


にじゅう【二重】


『二重スパイ』という映画を見ました。以前、テレビで放映していた『八月のクリスマス』を偶然見て、韓国映画と俳優のハン・ソッキュさんを好きになりました。そんなことがあり、封切られた『二重スパイ』を映画館に見に行くことにしたのです。

北朝鮮の諜報員であったハン・ソッキュ扮するイム・ビョンホは、韓国に亡命します。当初は、偽装亡命を疑われ激しい拷問などにあいますが、その後少しずつ信頼を獲得し、韓国国家安全企画部で働き始めるようになるのです。そして彼は、韓国の国家機密をすべてではありませんが、知ることができるまでになります。

この立場を利用し、彼は二重スパイとして北朝鮮のため、密かに諜報活動を行なうのです。しかし、ある事件をきっかけに、もう北朝鮮にも戻ることもできず、韓国にもいられなくなってしまいます…。

ひと言で言ってしまえば、とても哀しい映画だと思いました。時代や国に翻弄された人間が、そこには描かれていたからです。彼らは祖国を愛していたのでしょうが、その愛は彼らを幸福にしてくれません。映画館を出ると、外は真夏のように晴れ渡っていましたが、私はやり切れない気持ちを持ったままでした。

ただ、私がそれ以上に感じたのは、二重スパイの生活が周りの人をいつも欺いていることへの哀しみでした。彼らは本心を語りません。当たり前ですが、彼らは本当の目的を決して明かさないのです。彼らは、「祖国北朝鮮のため」という強い思いを開陳したり、他人と交わらせることは全くなく、包み隠して日々を暮らしているのです。

そうやって考えてみると、もしかすると私の隣にいる友人や同僚たちは、実際に感じていることを言っていないのかもしれません。本当の気持ちは話していないのかもしれないのです。いささかネガティブ過ぎる観点かもしれませんが、やはりその可能性はありえます。

この可能性をさらに極大化させてしまうと、親や兄弟といった家族だったとしても、本心や本音をきちんと理解することはできないのかもしれません。他者に対し、厳しく閉ざされた心を、外から完全に知ることはできないのでしょう。

映画の中にいた二重スパイたちのように、命を懸けた嘘や欺きもあるのでしょうが、人は平和な日常の生活であっても、小さな偽りを行なってしまうものです。それはやはり、哀しい人間の現実だと思うのです。

言わないこと、表現しないことは、他者に認識し、理解されることはありません。隠された意志は、隠れたままです。でも、だからこそ私は本当に考えていることを、できるだけきちんと伝えてゆきたいと思うのです。哀しい世界は、映画の話だけにしたいと思いませんか。


なづける【名付ける】


もし塩が「しお」でなく、「携帯電話」という名前であったとしたら、何だかやっかいになりそうな気がします。「あ、そこの塩とって」とお願いしても、塩を取ってくれる人はいないわけです。「携帯電話を取って」と言って初めて、塩を手にすることができ、目玉焼きに塩をかけることが出来るのです。

当たり前ですが、塩は私が生まれたときからずっと「しお」と呼ばれていたわけで、あのしょっぱい白い粉は、昔に「しお」と名付けられ、その名前のままで存在していました。「塩はどうして『しお』という名前なのだろう?」「なぜ他の名前ではないのだろう?」と考えることもないほど、身近で当然の名前です。

しかし、よくよく考えてみたら「しお」と名付けられず、別の名前だったとしても問題はないはずです。先述の「携帯電話」でも、「本」でも、あるいは「砂糖」でも、呼び名としては特に不都合はないように思います。

私は寡聞にして実際のところを知らないのですが、塩をどこかの会議で「しお」と名付けたわけではなさそうですし、誰かえらい人が決めたわけでもなさそうです。それなのに、塩は誰にとっても「しお」でしかないのです。あらためて考えると、これはとてもすごいことのように思えます。ことばや名前が大いなる普遍性を実現しているからです。

「しお」ということばが、すべての塩を指し示し、またほとんどすべての人にその意味が伝わります。もちろん、人によって文化によって、その理解する意味や思い浮かべるイメージに若干の相違があるとは思いますが、「塩をとって」と言えば、誰もが「しお」ということばを理解し、とってくれるのです。

また逆の面から言うと、「しお」という名前があるからこそ、人は「塩」というものを理解できるとも言えるでしょう。例えば、昔から魚をよく食べていた日本人が使う日本語には、「トロ」「中落ち」「赤身」などマグロの部位ごとに名前がありますが、英語にはその違いはなく、どこを食べても「ツナ」で、細かい違いは区別されていません。反対に、牛肉のそれぞれ部位の名前は、英語にしかありません。日本はそのことばを、概念ごと輸入しただけです。

ここでは、ものの存在が先か名前が先かという議論はいたしませんが、少なくともことばや名前があって初めて、ものや概念が指し示され、把握されるのは、どうやら紛れもない事実のようです。すなわち、名前があってこそ、我々はそれをひとつの存在として認識することができ、呼びかけたり、伝えたりできるのです。

塩が「しお」という名前である絶対的理由はなさそうです。名前は単に名前に過ぎないと言えるかもしれませんが、ものや事柄は名付けられることにより、その存在を我々の眼前に浮上させてくれているのです。名前がなければ、我々の生活もままならないかもしれません。いつまでも安心して目玉焼きが食べられるように、私としては名前の力が衰えぬことを祈るばかりです。