「サヨナラ」ダケガ人生ダ、再び【ブラッドベリ1000日チャレンジ#0147】


レイ・ブラッドベリさんが、「クリエイティブになるには、三種の読書を1000日続けよ」と仰っていたということで、短い物語(短編小説)、詩・俳句・短歌・歌詞、論考と三種類のテキストを毎日読みます。そして、何を読んで何を感じたかを、備忘録的に記録しています。

【短編小説】イッツ・プリティ・ニューヨーク/東山彰良 ◎
ハチャメチャな登場人物が現れ、人間の本心に基づいて行動し、結果、物語が立ち上がっていく。ストーリーテリングの巧みさというよりも、人間が生きているドライブ感のようなものを強く感じた。自分に近しい人物像でもないし、強く共感したわけでもないが、読み終わると、生きるのも悪くないよねと思わされた。

【詩・俳句・短歌・歌詞】幸福が遠すぎたら/寺山修司 ○
干武陵の「勧酒」で、井伏鱒二が訳した「『サヨナラ』ダケガ人生ダ」の返歌になるのだろうか。この詩の最後、「さよならだけが/人生ならば/人生なんかいりません」という気持ちも分かるが、やはり勧酒とは、シチュエーションが違いすぎるように思う、誰かとの別れと、巡り来る季節や日々の暮らしは同一視できないだろう。

【論考】所番地なし/ロラン・バルト ○
筆者は、日本には○○通りのような名称はなく、郵便用の住所区分しかないと指摘する。例えば、ある家に訪問する際には、地図などを書いてもらわなければならない。そのため、その場所を理解するには、手製の地図を覚えたり、実際に歩いてみることが欠かせないという。これに従えば、地図アプリなどスマートフォンを見ながら移動している現代人は、場所や空間を知らぬままなのかもしれない。


鏑木清方【『一日一文 英知のことば』から学ぶ#121】


【4月30日】鏑木清方:1878.8.31~1972.3.2

鶸色に萌えた楓の若葉に、ゆく春をおくる雨が注ぐ。あげ潮どきの川水に、その水滴は数かぎりない渦を描いて、消えては結び、結んでは消ゆるうたかたの、久しい昔の思い出が、色の褪せた版画のように、築地川の流れをめぐってあれこれと偲ばれる。(「築地川」)

『随筆集 明治の東京』山田肇編、岩波文庫、1989年

【アタクシ的メモ】
鶸色(ひわいろ)とは、明るい黄がちの黄緑色のことだそうだ。日本画家だったが、随筆もよく書いたようで、色味も繊細だし、流麗な文章だと思う。


東京の中心は空虚である【ブラッドベリ1000日チャレンジ#0146】


レイ・ブラッドベリさんが、「クリエイティブになるには、三種の読書を1000日続けよ」と仰っていたということで、短い物語(短編小説)、詩・俳句・短歌・歌詞、論考と三種類のテキストを毎日読みます。そして、何を読んで何を感じたかを、備忘録的に記録しています。

【短編小説】それからの家族/早見和真 ○
母親が病気で亡くなってしまう、家族4人の物語。男3人はバラバラで、母親だけが太陽のようという設定が、ご都合主義に感じた。兄弟による見解の相違も、違うことが示されるのみで、理由や根拠が分からず、やや深みが足りないように思う。最後のハッピーエンド的な終わり方も、上手く理解できなかった。

【詩・俳句・短歌・歌詞】美しい国/永瀬清子 ○
戦中から戦後への変化を詠んだ詩だと思う。戦争については何も書いていないし、「敵」というワードがちらっと出るくらいだが。やはり、感じたことを感じたままに語れることは、人間が生きていくためには重要である。本音、本心が表現できないのは、苦痛でしかないだろう。しかし、本音を語ることと、美しさは別だとも思う。

【論考】中心一都市 空虚の中心/ロラン・バルト ○
筆者は「中心へゆくこと、それは社会の《真理》に出会うことである」と言う。ただ東京の中心には皇居があり、「その中心は空虚である」と指摘する。長く私は、東京の中心は空虚であると考えていたが、社会的中心ではないだけで、精神的な寄り所にはなっているのではないかと、改めて思い始めた。


ウィトゲンシュタイン【『一日一文 英知のことば』から学ぶ#120】


【4月29日】ウィトゲンシュタイン:1889.4.26~1951.4.29

本書は哲学の諸問題を扱っており、そして——私の信ずるところでは——それらの問題がわれわれの言語の論理に対する誤解から生じていることを示している。本書が全体としてもつ意義は、おおむね次のように要約されよう。およそ語られうることは明晰に語られうる。そして、論じえないことについては、ひとは沈黙せねばならない。

『論理哲学論考』野矢茂樹訳、岩波文庫、2003年

【アタクシ的メモ】
「論じえないことについては、ひとは沈黙せねばならない」は、とても好きな言葉。翻訳でも、ちゃんと『論理哲学論考』を読んでいないから、なんちゃってなんだろうけど。


パチンコは集団的で、一人ぼっち【ブラッドベリ1000日チャレンジ#0145】


レイ・ブラッドベリさんが、「クリエイティブになるには、三種の読書を1000日続けよ」と仰っていたということで、短い物語(短編小説)、詩・俳句・短歌・歌詞、論考と三種類のテキストを毎日読みます。そして、何を読んで何を感じたかを、備忘録的に記録しています。

【短編小説】水曜日の山/津村記久子 ○
物語全体にコロナ禍が通底する中で、いくつかのエピソードが言られる。ただ、読む方が悪いだけかもしれないが、話が散漫な感じがして、ストーリーのつながりを感じなかった。冒頭の自転車をひいてしまいそうなるのも、どうして書かれていたのだろろ。表現、描写自体も、結構わかりづらかったし。

【詩・俳句・短歌・歌詞】タぐれの時はよい時/堀口大學 ○
タイトルにもなっているが、一番言いたいのは、「夕ぐれの時はよい時/かぎりなくやさしいひと時」なのだろう。だが、その説明も冗長で、ロジックにもなっていないから、なぜそう言うのが腑に落ちなかった。やや悪く言いすぎかもしれないが、言葉を継げば継ぐほど、詩の内容がぼんやりしてしまったように思う。

【論考】パチンコ/ロラン・バルト ○
現在のパチンコ(スロット)は、随分様変わりしているが、集団的で、しかも一人ぼっちな点など、とても日本的(非西洋的)なものに見えたのだろう。だが、筆者の分折力や洞察力は、それほど感じなかった。どうであるかばかり語っていたと思うからだ。とは言え、見知らぬものでも、ちゃんと見つめる姿勢は、見習うべきだろう。


中里介山【『一日一文 英知のことば』から学ぶ#119】


【4月28日】中里介山:1885.4.4~1944.4.28

大菩薩峠は江戸を西に距る三十里、甲州裏街道が甲斐国東山梨郡萩原村に入って、その最も高く最も険しきところ、上下八里にまたがる難所がそれです。
標高六千四百尺、昔、貴き聖が、この嶺みねの頂に立って、東に落つる水も清かれ、西に落つる水も清かれと祈って、菩薩の像を埋めて置いた、それから東に落つる水は多摩川となり、西に流るるは笛吹川となり、いずれも流れの末永く人を湿おし田を実らすと申し伝えられてあります。(『大菩薩峠』)

『中里介山全集』第1巻、筑摩書房、1970年

【アタクシ的メモ】
中里介山の代表作『大菩薩峠』の冒頭部分を引用したようだ。単なる場所の説明だとも言えるが、視点が高いところにあるようで、趣が感じられると思った。


戦争で殺すのはきょうだいなのか、敵なのか【ブラッドベリ1000日チャレンジ#0144】


レイ・ブラッドベリさんが、「クリエイティブになるには、三種の読書を1000日続けよ」と仰っていたということで、短い物語(短編小説)、詩・俳句・短歌・歌詞、論考と三種類のテキストを毎日読みます。そして、何を読んで何を感じたかを、備忘録的に記録しています。

【短編小説】非美人/月村了衛 ○
単純化してまとめると、憧れていた人の美しくない姿を見て、それだけが忘れられないという話。それは理解できるのだが、小説にはならないだろうと思った。好意を寄せる理由もそれぼど深さがなかったし、なぜ興がさめてしまったのかも納得はできなかった。エピソードトークでしかなかったかもしれない。

【詩・俳句・短歌・歌詞】きょうだいを殺しに/高良留美子 ○
争いに賛成しているわけではないが、今現在、反戦の詩を読むと、絶対的に反論できない窮屈さがある。こうした詩に、私たらは逆らえなくなっている。正しい主張なのかもしれないが、自由ではないだろう。一方で、「きょうだい」という言葉は「人類みな兄弟」と言わんとしていることは同じなのか。

【論考】すきま/ロラン・バルト △
読めば読むほど、よく分からなくなるというのが、正直な所。すきまとは何なのか、なぜうなぎの料理が語られ、《天ぷら》りが取り上げられるのか。確かに西洋(フランス)と日本は違っている。とは言え、それらの違いを示されただけでは、具体的なメッセージまでたどり着けないのだろう。


ラ・ブリュイエール【『一日一文 英知のことば』から学ぶ#118】


【4月27日】ラ・ブリュイエール:1645.8.16~1696.5.10

幸福になる前に笑っておかなければならぬ。笑わぬうちに死んでしまうようなことにならぬとも限らないから。(第4章 心情について)

人間にとっては唯三つの事件しかない。生まれること、生きること、死ぬこと。生まれる時は感じない。死ぬ時は苦しい。しかも生きている時は忘れている。(第11章 人間について)

『カラクテール』(上)(中)、関根秀雄訳、岩波文庫、1952-53年

【アタクシ的メモ】
言葉の切れ味が鋭すぎて、驚くと同時に、ラ・ブリュイエールに強く興味が沸いた。引用元の『カラクテール』は、古代ギリシア哲学者デオフラストスの翻訳でもあるようなので、デオフラストスの『人さまざま』も読んでみたくなった。まさに知の数珠つなぎである。


昨日はどこにもありません【ブラッドベリ1000日チャレンジ#0143】


レイ・ブラッドベリさんが、「クリエイティブになるには、三種の読書を1000日続けよ」と仰っていたということで、短い物語(短編小説)、詩・俳句・短歌・歌詞、論考と三種類のテキストを毎日読みます。そして、何を読んで何を感じたかを、備忘録的に記録しています。

【短編小説】旅の熱/高山羽根子 △
小説、ストーリーというより旅のエッセー、日記のような文章。一人称形式で書かれているが、私も僕も出てこないこともあり、人の顔が浮かび上がってこない。時間軸もあちこち行ってしまうし、淡々とした書き方で、体温や熱も感じられなかた。せっかく読んでいるのだから、ほんの少しでも心ない動く箇所があるとよかった。

【詩・俳句・短歌・歌詞】昨日はどこにもありません/三好達治 ○
タイトルである「昨日はどこにもありません」を、何度も繰り返す。ぼんやりと共感するというか、言いたいことが分かるような気もするが、作者のメッセージがビビッドに伝わってくるわけではない。「今日」や「今」だけが、存在すると言いたいのだろうか。ある瞬間は、まさにその瞬間だけ存在し、そしてすぐに消滅すると主張したいのだろうか。

【論考】中心のない食物/ロラン・バルト ○
筆者は、日本料理には《中心》がないと指摘する。食べる順番なども決まっておらず、断片のコレクションにすぎないという。そして、その例として《すき焼き》を取り上げる。なまの材料が持ち込まれ、食卓で調理される点も《中心》のなさのようだ。料理の「作る」と「食べる」が一緒くたなのも日本独自だと述べている。


デフォー【『一日一文 英知のことば』から学ぶ#117】


【4月26日】デフォー:1660頃~1731.4.26

ある日のことであった。正午ごろ、舟のほうへゆこうとしていた私は海岸に人間の裸の足跡をみつけてまったく愕然とした。砂の上に紛れもない足跡が一つはっきりと残されているではないか。私は棒立ちになったままたちすくんだ。まさしく青天のへきれきであった。それとも私は幽霊をみたのであったろうか。耳をすまし、あたりを見まわしたが、なにも聞こえなかった。なにもみえなかった。もっと遠くをみようと、小高いところにもかけ登った。浜辺も走りまわった。しかしけっきょくは同じで、その足跡のほかはなにもみることはできなかった。

『ロビンソン・クルーソー』(上)、平井正穂訳、岩波文庫、1967年

【アタクシ的メモ】
主人公ロビンソンは乗っていた船が難破し、無人島に漂着。そこで誰にも頼らず、28年間に渡って生き抜くという苛酷な体験をしたようだ。それであれば、人の存在を予感させるものに出会えば、とても興奮するだろう。