内田百閒【『一日一文 英知のことば』から学ぶ#150】


【5月29日】内田百閒:1889.5.29~1971.4.20

生きてゐるのは退儀である。しかし死ぬのは少少怖い。死んだ後の事はかまわないけれど、死ぬ時の様子が、どうも面白くない。妙な顔をしたり、變な聲を出したりするのは感心しない。ただ、そこの所だけ通り越してしまへば、その後は、矢つ張り死んだ方がとくだと思ふ。とに角、小生はもういやになつたのである。(「無恒債者無恒心」)

『新輯 內田百閒全集』第2巻、福武書店、1986年

【アタクシ的メモ】
恥ずかしながら私も、生きるのが退儀であると感じることが多い。もちろん、幸せを感じることもあるのだが、やはり家庭を持ってからは、辛いと思うことが増えたかもしれない。それでも今は、家族を自分の生きる目的にしている。


コンラート・ローレンツ【『一日一文 英知のことば』から学ぶ#149】


【5月28日】コンラート・ローレンツ:1903.11.7~1989.2.27

攻撃は元来健全なもの、どうかそうあってほしいと思う。だがまさに攻撃衝動は本来は種を保つれっきとした本能であるからこそ危険きわまりないのである。つまり本能というものは自発的なものだからだ。もし攻撃本能が、多くの社会学者や心理学者たちが考えたように、一定の例外的条件に対する反応に過ぎないのであれば、人類の形状はこれほど危うくなりはしなかったろう。もしそうなら、反応を引き起こす諸原因をつきとめて、取り除くこともできよう。

『攻撃 悪の自然誌』日高敏隆・久保和彦、みすず書房、1985年)

【アタクシ的メモ】
現在の日本では、攻撃などが絶対悪と見做されていると思う。何らかの攻撃が処罰されるといったことは、法治国家として適切だと思うが、人に攻撃の衝動があり得るということは、認めるべきだと思う。後は、それぞれの人が、その衝動をどのようにコントロールするかということだ。


ネルー【『一日一文 英知のことば』から学ぶ#148】


【5月27日】ネルー:1889.11.14~1964.5.27

大衆を飢餓と不潔と無知に安住させておくことにかまけているような宗教に私は関わりをもちたくない。人びとはこの世でもっと幸福になりもっと文明に浴することができるし、真の人間、わが運命の主、わが心の長になることができるのだ。宗教的であれ何であれ、そう人びとに説かぬようなどんな集団とも私は関わりを持ちたくない。

エドガー・スノウ『始まりへの旅』1958年(『オクスフォード引用句辞典』所収、編者訳出)

【アタクシ的メモ】
とても真っ当な発言である。人間に幸福をもたらそうとしない宗教や経済活動は、非常に志が低いと思う。自社に売上があがり、利益がでさえすればヨイと考えるビジネスパーソンは、残念ながら思った以上に多いと思う。


ハイデガー【『一日一文 英知のことば』から学ぶ#147】


【5月26日】ハイデガー:1889.9.26~1976.5.26

思索は言葉をとり集めて単純な語りにする。言葉は存在の言葉である、雲が空の雲であるように。思索はその語りでもって、言葉のうちに目立たぬ畝を切る。その畝間は、農夫がゆったりとした足どりで畑に切っていく畝間よりももっと目立たないものなのだが。

『ヒューマニズム書簡』編者訳出

【アタクシ的メモ】
何を言おうとしているのか、ちょっとよくわからない。思索によって、言葉が整理され、何らかの方向性(意見)が生まれるということだろうか。


ロバート・キャパ【『一日一文 英知のことば』から学ぶ#146】


【5月25日】ロバート・キャパ:1913.10.22~1954.5.25

暁闇の中、爆弾で噴火口のようにあけられた穴だらけの道にクリスが目をこらしているあいだに、私はふと先刻の写真をとりだしてみた。それらは、ちょっとピンぼけで、ちょっと露出不足で、構図は何といっても芸術作品とはいえない代物であった。けれどもそれらは、シシリヤ攻略を扱った限り、唯一の写真であり、海上部隊の写真班が、海岸からなんとか、発送の手配をつけたものよりも幾日か早いにちがいないのである。(「シシリヤの空中に浮かぶ」)

『ちょっとピンぼけ』川添浩史・井上清一訳、文春文庫、1979年

【アタクシ的メモ】
例えば写真の価値を決めるのは、ピントの合い方や露出、構図といった重要と思われる要素だけではないということか。被写体を写したものが、その写真しか存在しなければ、たとえピンぼけであっても、価値が生まれるのだろう。


朱子【『一日一文 英知のことば』から学ぶ#145】


【5月24日】朱子:1130~1200

文字は汲汲として看るべし。悠悠たるは得からず。急ぎ看て、方はじめて前面に看し底に接し得。若し放漫なれば、則ち前面の意思と相い接せず。某の文字を看るや、看て六十一歳に到り、方めて略ぼ道理を見得ること恁地のごときを学ぶ莫れ。

本は倦まずたゆまず読むべきで、のんびりやっていたんでは駄目だ。急ぎ読んでこそ、さきに読んだものとつながってくる。もしのんべんだらりにやっておれば、さきの意味とつながらなくなる。私など本を読むのに、六一歳まで読んできて、やっとあらまし道理がこのように見えてきたが、こういう様を真似てくれるな。

吉川幸次郎・三浦國雄『朱子集』(『中国文明選』3、朝日新聞社、1976年)

【アタクシ的メモ】
ここ最近、毎日のように本を読んでいるが、それによって「さきに読んだものとつながってくる」ことを実感している。毎日ではないにしても、「たゆまず」続けることは、とても重要だと思う。


イプセン【『一日一文 英知のことば』から学ぶ#144】


【5月23日】イプセン:1828.3.20~1906.5.23

物を書くとは、いったい、どういうことを言うのでしょうか? 近ごろになってやっとわかったのは、書くというのは、もともと見るということだ、ということです。ただし、——いいですか——見られたものが、作者がそれを見たのときっちり同じ形で、読者のものとなるように見ることです。しかし、本当にそれを生き抜いたことだけがそう見え、そうなってくるのです。しかも、それについて書くことを生き抜くということこそが、近代文学の秘密なのです。

原千代海『イプセンの読み方』岩波書店、2001年より

【アタクシ的メモ】
「書くというのは、もともと見るということだ」というのは、書く前の前提条件としてよくわかると感じた。ただ、後半部分の記述は、日本語としてあまり成立していないと思うし、そのため、正直意味がわからないでいる。


コナン・ドイル【『一日一文 英知のことば』から学ぶ#143】


【5月22日】コナン・ドイル:1859.5.22~1930.7.7

ここに医者らしいタイプの紳士がいる。だが、どことなく軍人ふうのところもある。だから軍医にちがいない。顔はまっくろだが、手首が白いところを見ると生まれつき黒いわけじゃない。とすれば、熱帯地方から帰ったばかりだということになる。顔のやつれているのを見れば、だいぶ苦労した上に病気までしたことがわかる。左手にけがもしている。動きがこわばってぎごちないからだ。イギリスの軍医がこんな苦労をした上に、けがまでした熱帯地方というのはどこだろう。言うまでもなくアフガニスタンだ。これだけつづけて考えるのに、1秒もかからなかった。(『深紅の糸の研究』)

『シャーロック・ホウムズの冒険』林克己訳、岩波少年文庫、1985年、解説より

【アタクシ的メモ】
論理的な思考だけで、事態を解明していくというのは、個人的にどうしてもリアリティにかけると思ってしまう。様々な事柄で、選択肢が限られた時代ならいざしらず、現代においては、机上の空論、ご都合主義に感じてしますのだ。


ドビュッシー【『一日一文 英知のことば』から学ぶ#142】


【5月21日】ドビュッシー:1862.8.22~1918.3.25

美の真実な感銘が沈黙以外の結果を生むはずがないのは、よく御存知でしょうに……? やれやれ、なんてこった! たとえばです、日没という、あのうっとりするような日々の魔法を前にして、喝采しようという気をおこされたことが、あなたには一度だってありますか?(「クロッシュ氏・アンティディレッタント」)

『ドビュッシー音楽論集』平島正郎訳、岩波文庫、1996年

【アタクシ的メモ】
人が真に美しいものに触れると、言葉を失い、沈黙せざるを得ないということのようだ。それは正しいと思う反面、大きな感動が何かの言葉や行動を、強く引き出すこともあるように思う。


バルザック【『一日一文 英知のことば』から学ぶ#141】


【5月20日】バルザック:1799.5.20~1850.8.18

パリはまことに大海原のようなものだ。そこに側鉛を投じたとて、その深さを測ることはできまい。諸君はこの海洋をへめぐり、それを描きだそうと望まれるだろうか。それをへめぐり、かつ描くことに諸君がいかに精魂をこめようと、またこの大海の探検家たちがいかに大勢で、いかに熱心であろうと、そこにはかならず未踏の地が残り、見知らぬ洞穴や、花や、真珠や、怪物や、文学の潜水夫からは忘れられた前代未聞のなにかが残ることだろう。

『ゴリオ爺さん』(上)、高山鉄男訳、岩波文庫、1997年

【アタクシ的メモ】
世界は未知にあふれている、ということだろうか。併せて、観察者である人間の限界を示しているのかもしれない。