そば【蕎麦】


最近まで、「そば」はそんなに好きではありませんでした。そば屋さんに入っても、うどんがあれば、私一人うどんを頼むことが、今までは多かったのです。そばとうどんどちらが好きかと聞かれれば、ほとんど迷わずうどんと答えていました。

そばのさらっとした感覚より、うどんのもちもち感の方が自分の好みでした。特に鍋焼きうどんや煮込みうどんのような具材の多い料理は、食べ応えがあり満足感も大きく、こういったことも好きな理由でした。

しかし今では、うどんと同じくらいそばが好きになりました。その理由は単純で、私の友人が小さいながらもそば屋を営んでおり、修行をしていた店や彼のお店で、おいしいそばを何度も食べさせてもらったからです。

彼と出会ったのは、私が浪人生活を送った浜松でした。私が大学に入学して仙台に移ってからは、距離も離れてしまいました。ですので、親しく時間を共有したのは一年間だけでした。それでも、何とはなしに気が合ったので、その後も連絡を取り合い、たまに会ったりしていました。

そんな関係を続ける中、彼は自分でそば屋をやりたいと目標を定め修行を始めました。その後、約10年間の修行をし、貯金を貯めて、とうとう自分の店をオープンさせました。西武新宿線の武蔵関という駅から歩いて、 5 分くらいのところにあります。店の名前は、「にはち」といいます。

彼の店は、15人入れるかどうかという、そんなに大きなものではありません。でも、新しいせいもあるとは思うのですが、こぎれいにしていて、ジャズが穏やかに流れています。周りの環境が静かなのもあって、店内に入り、奥さんが笑顔で迎えてくれるとホッとする感じです。

友人だからとお世辞を言うつもりはないのですが、何より素晴らしいのはそばをはじめ、天ぷらやちょっとした料理も、大変おいしいのです。その味は、新潮文庫の『もっとソバ屋で憩う―きっと満足123店』という本にも取り上げられているほどです。

私は、彼の修行中身近にいたわけではありませんので、詳しくその過程を知っているわけでもありませんし、まして何か手助けできたわけでもありません。それでも、18歳のとき出会ったサッカーが得意な少年が、本当においしいそばを作れるようになり、自分の店を構えるようになるまでの努力は、並大抵ではなかったのだろうと思っています。

彼のおいしいそばに惹かれ、ちょっと遠いのですが、時間に余裕のあるときは店に行って、お酒など頂きながら舌鼓を打っています。そして私は、幾分酔っ払った頭の中で、彼が成し遂げたことへの敬意と、自分がまだ何も達成していないことへの反省をない交ぜにしながら、店を後にするのです。


せっきょう【説教】


誰でもお説教されるのは、嫌だと思います。まれに説教すること自体が好きで、訳もなく吹っ掛ける人もいるでしょうが、するのもされるのも、好んでする人はあまりいないでしょう。

私は子どもの頃から、よく説教されていました。大人になったら「もうされないかな」と高をくくっていましたが、社会人になってもやっぱり、説教をされる機会はそんなに減りませんでした。ただ会社に入ってしばらくすると、後輩や部下もできるので、立場上自分が説教するようにもなりました。

されていただけのときは、「説教をもらわないようにしないと」とか、「始まってしまった説教が早く終わらないか」などと、単純に説教から逃れよう、受けないようにしようとばかり考えていました。しかし、自分もときに説教をする立場になると、そうとばかり思えなくなったのです。

人によって、場面によって、色々な説教があるとは思うのですが、説教する人が「しなければ」と考えたのには、それなりの理由や事情があるのではないでしょうか。

例えば、職場での説教であれば、このまま放置しておいたら、お客様や取引先に迷惑がかかり、被害が出るとか、信頼を失ってしまうとか、趣味や遊びでするわけではないので、それ相応の必要や理由があるのだと思います。

違った言い方をすれば、その説教自体は目的ではありません。伝えるべきことが受け手にきちんと理解されたり、身につけてもらったりしないことには、全く意味がないわけです。

先日、何気なく入った書店で、何となく手にとった本に、「上司に怒られているときは、メモを取ろう」と書いてありました。ウンウンとうなずいているだけでは、積極性に欠ける態度に見える。だから、特にメモする事項がなくてもやる気を見せるためにもメモしよう、という理屈です。

ここまで、戦略的な応対でなくてもよいとは思いますが、それでもやはり説教なり、お叱りを受けるとき、「はい」と謙虚に答えるだけでなく、その意図を了解していることを示した方がよいと思います。

聞いた話の内容をまとめてみたり、その指摘を受けて今後どうするかを発言したり、説教している人にきちんと表現することで、言っている方も、「きちんと伝わったのだな」と安心できるわけです。

繰り返しになりますが、説教をする側には目的もありますし、きちんと伝えたいことがあります。それをわかったかどうか、了解したかどうかを示すのは、説教される方の役目だ、と私は思うのです。説教の仕方だけでなく、いわば「説教のされ方」もあるのではないでしょうか。

確かに説教されているときは、気持ちのいいものではありません。反抗したくなるときも、きっと多いでしょう。でも、そういった一時の感情だけを優先して対応するのではなく、互いの意志確認と捉えて、説教されているときこそ、いつにも増してきちんと自分の理解したことを表現したいものです。

こうした、「よい説教のされ方」ができればきっと、押し付けとしての説教ではなく、コミュニケーションとしての説教が生まれてゆくのではないでしょうか。


すてる【捨てる】


「捨てる」と言うと、きっと悪いイメージしか持たないでしょう。物を捨てるなんて、もったいない。女性を捨てるとは、なんてひどい人。希望を捨てるのは、ああ絶望、というように。

若い年代の人は、物が豊富な時代に暮らしているので、何でも粗末にすると言われがちですが、まわりを見回してみると、老若男女問わず、案外みんな物を捨てないように思います。他人の私から見ていると、何が大切なのだろうと頭をひねるようなものでも、大事にしまっていたりします。

かく言う私も、ロックが好きなこともあり、高校生の頃から溜め込んだ 1500枚以上のCDを熱心に飾っては、大して聴きもしないものも多いのに、悦に入っている有様でした。あまり気に入らなかったものでも、一度購入したものは、なかなか捨てられなかったのです。

そのため私の部屋もご多分にもれず、大量のCDをはじめ、買ったのにずっと読まない本、読み終わったけど捨てない雑誌、何となく気に入らないのでほとんど着ないけど高かったので処分できない洋服などなど、たくさんの活用できていないモノであふれてしまっていました。

また、物理的な空間だけでなく、読んでいない本や雑誌、目を通すべき仕事の書類、そして毎日配信されるメールが、すぐには処理できないで溜まるばかりになっています。私ののろい頭では情報が有り余ってしまい、何が何だかわからなくなったりもしました。「豊かな生活を」と思って集めたモノによって、逆に混乱を招いてしまったわけです。

こんな状況で一大決心をしました。「とにかくいらないモノは捨てよう。シンプルな生活にしよう」と、私なりに心に誓ったのです。そうしないと、小さな部屋はモノに占領されてしまい、私の中に生じてしまった混乱や焦りも、消すことはきっと出来ないだろうと考えたからです。

まずはコレクション化して、ずっと手にも取らなかった雑誌を捨てました。読もうと思って買っただけの書籍も、古本屋に売りました。さらに、何となくずっと買い続けていただけのアーティストの CD も中古として処分しました。サイズがあっていない洋服、もう着なくなった洋服も、周りの人に譲ったりして、必要なものだけにしました。

いくら大きく決心していたとしても、捨てるということにもちろん罪悪感が起きましたし、中には思い出の品々もありましたから、簡単に捨てられたというわけではないのです。「えい」とばかり捨てたモノも多々あったのが実情です。

それでも、モノを捨てて自分の部屋が整理できてくると、すっきりと心地よい気持ちになりました。そして何より、残った本当に必要なモノが、どれだけ大事であったかわかったような気がしたのです。捨てたりして処分したモノは、山ではなく枯れ葉で、賑わいに過ぎなかったようです。

まだ使えるものであればなおさらでしょうが、やはりモノを捨ててしまうことは、もったいないことかもしれません。でも、モノは活かしてこそ、上手に使ってこそ、価値があると思うのです。生活の主役は、モノではなくヒトなのですから。

部屋はさっぱりとモノが少なくなり、それを出来るだけ維持しようと、今私は暮らしています。モノを買うときも、今まで以上に吟味して購入します。安いだけで使い道の不明確なモノは、もう買わないようにもしています。逆に、今までのモノを充分に手入れをしたり、大切に使ったりするようになりました。

「捨てる」と言うのは、一見モノを粗末にしている態度にも見えますが、捨て方によっては、よりモノを慈しむ行為、少なくともその過程に必要な行為に、私の経験からは思えるのです。