まもなく死神と出会うだろう【ブラッドベリ1000日チャレンジ#0075】


【短編小説】ここから世界が始まる/トルーマンカポーティ ◎
学校という目の前の現実を受け入れられず、空想に耽溺する少女の物語のようだ。もしかすると、同年代の当時者として、カポーティは書いたのかもしれない。最後の一文が「まもなく死神と出会うだろう」となっているので、ハッピーエンドではなく、バッドエンドを想像させる。学校という最初に出会う社会に居場所が見つけられないと、良くも悪くも人は本当に生きづらくなってしまう。

【詩・俳句・短歌・歌詞】六月/茨木のり子 ○
すっかり解釈できた感じはしないものの、ポジティブな詩だと思うので、読後感はよいものであった。ただ、なぜタイトルが「六月」なのか、「黒麦酒」に意味はあるのか、など分からないままである。作者の茨木のり子さんの詩も、ある程度読んできたせいか、親しみも感じている。

【論考】「世界」という書物について/森本哲郎 △
タイトルにある「世界という書物」、あるいは「書物としての世界」の話が後半になるまで出てこないので、ちょっと戸惑ってしまった。また、この論考の本題が語られるのも最後だけなため、やや拙速な感じがあり、説得力が十分ではないと思った。哲学のとらえ方も、論考ごとに違っている印象だ。


梶井基次郎【『一日一文 英知のことば』から学ぶ#048】


【2月17日】梶井基次郎:1901.2.17~1932.3.24

私は好んで闇のなかへ出かけた。渓ぎわの大きな椎の木の下に立って遠い街道の孤独な電灯を眺めた。深い闇のなかから遠い小さな光を眺めるほど感傷的なものはないだろう。私はその光がはるばるやって来て、闇のなかの私の着物をほのかに染めているのを知った。またあるところでは渓の闇へ向かって一心に石を投げた。闇のなかには一本の柚子の木があったのである。石が葉を分けて戞々と崖へ当った。ひとしきりすると闇のなかからは芳烈な柚子の匂いが立騰って来た。(「闇の絵巻」)

『檸檬・冬の日 他九篇』岩波文庫、1985年

【アタクシ的メモ】
闇とほのかな光。そして、闇に石を投げ込むことで、立ち上る匂い。そこに劇的なドラマはないが、ささやかな人間の認識がある。


似た者同士が不遜な会話を【ブラッドベリ1000日チャレンジ#0074】


【短編小説】似た者同士/トルーマン・カポーティ  ◎
2回読んだが、怪しい夫人たちの会話がハイコンテクストで、全体を理解できた気にならなかった。それでも、話す内容は犯罪者的なものではあるが、明確にしゃべらなかったり、語尾が暖味だったりすることが、リアリティを感じたせてくれた。人って、こんな風に話すよねと。

【詩・俳句・短歌・歌詞】山林に自由存す/国本国独步 ○
そんなに共感できない詩ではあったが、そもそも作者が言う「自由」とは何だろうなと思ってしまった。詩の表現を借りればい「血のわくを覚ゆ」なのであろうが、自身がワクワクできたら、自由なのかなとも感じてしまう。また、山林だけでなく自然と対峙すると自由さよりも、厳しさを覚えるのではないだろうか。

【論考】ふたたび、ものの見方について/森本哲郎 ○
一人称、二人称の視点だけでなく、第三者の視点が重要で、そうした三つの視点を自在に変えて、総合的に事柄をとらえるべきという考えにはとても賛同できる。ただ論の進め方は、論理よりも、エピソードベースで情緒が先行していることが多く、納得感や理解を妨げているのではないか。


西行【『一日一文 英知のことば』から学ぶ#047】


【2月16日】西行:1118~1190.2.16

心なき身にもあわれは知られけり鴫立つ沢の秋の夕暮

年たけて又越ゆべしと思きや命成けり佐夜の中山

風になびく富士のけぶりの空に消て行方も知らぬ我思哉

願はくは花の下にて春死なんそのきさらぎの望月の頃

『西行全歌集』久保田淳・吉野朋美校注、岩波文庫、2013年

【アタクシ的メモ】
古語は苦手なので、読み解くのが難しい。そんな中でも、富士山の噴煙が消えゆくさまと、自分自身の思いの曖昧さを重ねている「風になびく富士のけぶりの空に消て行方も知らぬ我思哉」が、一番好みかもしれない。


要するに、大したことじゃない【ブラッドベリ1000日チャレンジ#0073】


【短編小説】西行車線/トルーマン・カポーティ ◎
「IV」から始まり、不思議に思っていたら「III」「II」「I」と、全く別の物語がそれぞれ展開していった。共通点は、最後にバスに乗るということだけ。そして「0」では悲劇的な結末を迎える。ただ、最後の「人はみな、それぞれの道で天国に達するものなれば」という一文が、唯一の救いである。

【詩・俳句・短歌・歌詞】道程/高村光太郎 ◎
「僕の前に道はない/僕の後ろに道は出来る」で始まる。やはりこれは、キラーワードだなと思う。詩自体も短いが、自然を父にたとえ、父に見守られることで、長い道のリ(時間軸)を進もうとしている。将来が判然としなくても、未来を切り開こうとする若者の決意表明だと感じた。

【論考】ものの見方について/森本哲郎 △
この論考を一言でまとめると、「要するに、大したことじゃない。生活を愉しめ」ということだ。その主旨自体に反論はないし、それが「陽気な哲学」であると言われれは、その通りであろう。ただ、西洋哲学と比べるのは、あまり意味がないと思う。この哲学は、人間の生き方や態度に近く、知の探求ではないからだ。


二葉亭四迷【『一日一文 英知のことば』から学ぶ#046】


【2月15日】二葉亭四迷:1864.2.28~1909.5.10

誠に人生は夢の如しといふうちにも、小生の一生の如きは夢よりも果敢なくあはれなるものなるべし。……かくして空想に入りて一生を流浪の間に空過し、死して自らも益せず人をも益せず、唯妻子を路頭に迷はすのみにてはあまりに情けなく候へど、これも持たが病已むを得ず候。(明治36年2月15日付、奥野小太郎宛書簡)

『二葉亭四迷全集』第七巻、岩波書店、1965年

【アタクシ的メモ】
二葉亭四迷という筆名の由来は、自分自身を「くたばって仕舞え」と罵ったことによるそうだ。上記の引用も、自身に対する後ろ向きな気持ちを、手紙に綴ったといったところなのだろうか。


ニューヨークの日常でもドラマは起こらない【ブラッドベリ1000日チャレンジ#0072】


【短編小説】ルーシー/トルーマン・カポーティ  ◎
南部からニューヨークに来て、しばらくそこで過ごしてまた戻ってしまったルーシー。それなりに都会の生活を楽しんだようだが、特別なことが起こったわけではなかった。とても淡々としている。そう、生きていたって、そんなにドラマが起こってくれるわけではない。それは、ニューヨークでも同じことなのだ。

【詩・俳句・短歌・歌詞】自分の感受性くらい/茨木のり子  ◎
気づけば、色々とできない理由を、環境や周囲の人のせいにしていることを、見透かされているように思った。最後の「自分の感受性くらい/自分で守れ/ばかものよ」ももちろん響いたが、「初心消えかかるのを/暮らしのせいにするな/そもそもがひよわな志にすぎなかった」を読んで、背筋が自然と伸びるのだった。

【論考】人間の絆について/森本哲郎 △
どうやら有島武郎が書いた「カインの未腐」という小説を基に論を進めているようだが、説明不足でちょっと唐突な感じであった。また、この論考で言いたいこともよく理解できずに終わってしまった感じである。人間の絆をテーマにするのに、かなり極端な例を持ってきた印象である。


中井正一【『一日一文 英知のことば』から学ぶ#045】


【2月14日】中井正一:1900.2.14~1952.5.18

一体人間は、二つの魂の誕生をもっているといえよう。世界がこんなに美しく、世の中がこんなに面白いものかと驚嘆する時がある。これが第一の誕生である。そしていつか、それとまったく反対に、人間がこんなに愚劣であったのか、また自分も、こんなに下らないものだったのかと驚嘆し、驚きはてる時がくる。これが第二の、魂の誕生なのである。しかし、この時、人々は、ほんとうの人生を知ったというべきであろう。(「美学入門」)

『中井正一評論集』長田弘編、岩波文庫、1995年

【アタクシ的メモ】
中井正一は、美学者、評論家、社会運動家だったとのこと。国立国会図書館の初代副館長でもあった。上の記述は、美醜による二元論的な人間理解だったということであろう。


八歳の活力と同年代に死の影【ブラッドベリ1000日チャレンジ#0071】


【短編小説】これはジェイミーに/トルーマン・カポーティ ◎
もうすぐ八歳になるテディの物語。その年齢らしい純粋さや快活さにあふれた文体である。それだけでも価値のある作品ではないか。だだ八歳の活力、明るさの背後に、同年代ジェイミーの死を感じさせ、重苦しくはないが、悲しみがにじむ。読み手としては、これまでにないパターンに、してやられた感じだ。

【詩・俳句・短歌・歌詞】奴隷根性の唄/金子光晴  △
2023年現在では、なかなか受け入れられない詩ではないだろうか。焦点は、奴隷根性自体を責めているのか、奴隷根性を持つ「人」を非難しているのか。私には「人」を責めているように読めて、共感できなかった。そうした状況は、環境に由来することもあり、個人だけを問題視できないのではと思った。

【論考】生命の不思議について/森本酒郎  △
「自然は経験を必要としない」という言葉から、生物はそれぞれ世界を持ち、それは「総譜」や「意味の計画」だと説明する。しかし、私には「作曲」や、そもそも「意味」が何を差しているのか、よく分からなかった。特に意味というのは、人が、ある視点から見出すものであり、他の生物にとって、意味はあってもなくても構わないのだと思う。


内村鑑三【『一日一文 英知のことば』から学ぶ#044】


【2月13日】内村鑑三:1861.2.13~1930.3.28

神を見ると夢幻にかれを見るということではない、また神秘的にかれを感ずるということでもない、神を見るとはイエスキリストを真の神として認むることである。かの最も不幸なる人、かの罪人として十字架に懸けられ、エリエリラマサバクタニの声を発しながら息絶えし人、かの人を神と認むるをえて、人生のすべての問題の解決はつくのである。神を見るとは実に神を見ることである、わが罪を担うてわれに代わりて屈辱の死を遂げ給いし人なるイエスキリストを神として認むることである。(「神を見ること」)

『内村鑑三所感集』鈴木俊郎編、岩波文庫、1973年

【アタクシ的メモ】
自分はキリスト教徒ではないせいか、トートロジーに感じる。「イエスキリストは神だから神なのだ」というような。「真の神」という表現も、真ではない神がいるようで、やや違和感がある。