完膚なきまでに蹂躙され【ブラッドベリ1000日チャレンジ#0160】


レイ・ブラッドベリさんが、「クリエイティブになるには、三種の読書を1000日続けよ」と仰っていたということで、短い物語(短編小説)、詩・俳句・短歌・歌詞、論考と三種類のテキストを毎日読みます。そして、何を読んで何を感じたかを、備忘録的に記録しています。

【短編小説】魚/リディア・デイヴィス ○
これも超短編。女が魚を料理し、食べられず、じっと見ているというシーンである。非常に面白いのが、人間のある個人の感情と魚からの視点という2方向の見方だ。魚は「完膚なきまでに蹂躙され」と表現しており、それはまさに魚視点であり、「する」と「される」は仕方ないことではあるが、対等なのである。

【詩・俳句・短歌・歌詞】かえる/谷川後太郎 ○
かえるという言葉を使った遊び的な詩である。とにかく、かえるが繰り返えされることもあり、自然とテンポが生まれるし、ユーモアさも感じられる。ただ、メッセージ性があるわけではないので、どうしてこれを読むのだろうと自分に問うてみると、正直、答えに窮してしまう。

【論考】数百万の個体/ロラン・バルト △
今回もよくわからなかった。人間の顔についての個性がテーマのようであるが、どの個所を読んでも、ほとんど意味をとることができなかった(自分には読解力、理解力がないのではないかと悲しい気持ちになる)。個性は、個体と個体とのあいだの、相互に何の特権ももたない、重屈折のある相違であるにすぎないのだそうだ。


カッシーラー【『一日一文 英知のことば』から学ぶ#134】


【5月13日】カッシーラー:1874.7.28~1945.513

言語、神話、芸術を「シンボル形式」と呼ぶとき、この表現にはある前提がふくまれているように思われる。それは、言語も神話も芸術もすべて精神の形態化の特定の様式であって、それらはすべて、遡れば現実というただ一つの究極の基層に関わっているのであり、この基層が、あたかもある異質な媒体を透して見られるかのように、それらそれぞれのうちに見てとられるにすぎない、という前提である。現実というものは、われわれにはこうした形式の特性を介してしか捉ええないように思われるのだ。

『シンボル形式の哲学』(3)、木田元・村岡晋一訳、岩波文庫、1994年

【アタクシ的メモ】
言語、神話、芸術を「シンボル形式」とするなら、シンボル形式を通してしか、我々は現実を捉えられないという。私自身は正しい言説だと思う反面、ここでいう「現実」とはいったい何を言っているのだろうか。写真を撮って一瞬の光のありようを記録するように、そのありのままを記述することでも、現実は捉えられるのではないか。


かっぱよ、らっぱをかっぱらわないで【ブラッドベリ1000日チャレンジ#0159】


レイ・ブラッドベリさんが、「クリエイティブになるには、三種の読書を1000日続けよ」と仰っていたということで、短い物語(短編小説)、詩・俳句・短歌・歌詞、論考と三種類のテキストを毎日読みます。そして、何を読んで何を感じたかを、備忘録的に記録しています。

【短編小説】彼女が知っていること/リディア・デイヴィス ○
「彼女は本当は女ではなく男だった。しばしば太った男だったが、おそらくもっとしばしば年寄りの男だった」という、謎の超短編。書籍でも5行程度しかなく、非常に不条理な設定である。「若い女でいることは彼女にとって苦痛だった」の「いる」とは何を指しているのだろうか。物理的に若い女性であるとすれば、ますます謎が深まる。

【詩・俳句・短歌・歌詞】かっぽ/谷川俊太郎 ○
「かっぱらっぱかっぱらった」というように、早口言葉のような詩である。ひらがなばかりであるせいで、読みづらいだけでなく、意味も理解しづらいが、愉快な感じは十分に出ているだろう。「とってちってた」は、どうやらラッパから出る音を表しているようだ。

【論考】書かれた顔/ロラン・バルト △
今回も何度か読んで、真意はつかめなかった。描かれたは、化粧したということらしく、「書かれた顔」とは女形のことを指しているのだろうか。西洋の女形は、一人の女になろうとするが、東洋(日本)では女性の表徴を組み合わせるだけだという。だからこそ、日本の女形はおしろいを塗ったりするのだろうか。


ナイチンゲール【『一日一文 英知のことば』から学ぶ#133】


【5月12日】ナイチンゲール:1820.5.12~1910.8.13

子供たちに、新鮮な空気が入り、明るく、陽当りよく、広々とした教室と、涼しい寝室とを与え、また戸外でたっぷりと運動をさせよう。たとえ寒くて風の強い日でも、暖かく着込ませて充分に運動させ、あくまで自由に、子供自身の考えに任せて、指図はせずに、たっぷりと楽しませ遊ばせよう。もっと子供に解放と自然を与え、授業や詰めこみ勉強や、強制や訓練は、もっと減らそう。もっと食べ物に気をつかい、薬に気をつかうのはほどほどにしよう。(「ロンドンの子供たち」)

『看護覚え書』第6版、薄井坦子ほか編訳、現代社、2000年

【アタクシ的メモ】
専門的ではなく、プリミティブにも感じる提言ではあるが、現在読むと非常に首肯するし、正しいことを言っていると感じる。こうした考えは、18~19世紀にどのように捉えられたのだろう。


むかしわたしはこむぎでした【ブラッドベリ1000日チャレンジ#0158】


レイ・ブラッドベリさんが、「クリエイティブになるには、三種の読書を1000日続けよ」と仰っていたということで、短い物語(短編小説)、詩・俳句・短歌・歌詞、論考と三種類のテキストを毎日読みます。そして、何を読んで何を感じたかを、備忘録的に記録しています。

【短編小説】バードフ氏、ドイツに行く/リディア・デイヴィス ○
小見出し付きの文章は、まとめもあり、小説というよりはレポートのような体裁である。記述も客観的な視点で、出来事を羅列する感じで、これまで以上に淡々とした印象になった。最初に、バードフ氏の矢敗を予告していることもあるかもしれない。難解さはないが、読む気持らが高まわけでもない。

【詩・俳句・短歌・歌詞】ぱん/谷川俊太郎 ◎
ひらがなだけで書かれているので、幼い子でも読める点も素晴しいと思う。そして、私が一番気に入ったのは、「むかしわたしはこむぎでした」と原料にさかのぼっていくこと。これは物事の根源に帰ろうという態度だと思うし、こむぎを育む自然にも思考は回帰しており、作者の想像力の豊かさを証明していると思う。

【論考】文房具店/ロラン・バルト △
タイトル通り、文房具店について。まずはアメリカの文房具店について語り、その次はフランス。そして、日本の文房具店について論評する。しかし、ことごとく分からない。例えば「日本の文房具店のあつかう事物は、象形文字風の表現体(エクリチュール)である」という文を、どのようにて理解、解釈すればヨイのだろうか。


萩原朔太郎【『一日一文 英知のことば』から学ぶ#132】


【5月11日】萩原朔太郎:1886.11.1~1942.5.11

金魚のうろこは赤けれども
その目のいろのさびしさ。
さくらの花はさきてほころべども
かくばかり
なげきの淵に身をなげすてたる我の悲しさ。(「金魚」)

『萩原朔太郎詩集』三好達治選、岩波文庫、1981年

【アタクシ的メモ】
美しさと哀しさは、表裏一体なのだろうか。いや、美しさが存在するからこそ、哀しみが顕著になっていくのであろう。


言葉なきものたちの仲間になる【ブラッドベリ1000日チャレンジ#0157】


レイ・ブラッドベリさんが、「クリエイティブになるには、三種の読書を1000日続けよ」と仰っていたということで、短い物語(短編小説)、詩・俳句・短歌・歌詞、論考と三種類のテキストを毎日読みます。そして、何を読んで何を感じたかを、備忘録的に記録しています。

【短編小説】分解する/リディア・デイヴィス ○
2度ほど読んだが、何とも頭に入っていなかった感じだ。ストーリーとしては、ある男性が女性との一度の関係について、分析するというか、収支を計算するのだが、時間軸も明確ではないし、情景描写もほとんどないため、テキストを読んでも、あまり具体的なイメージが頭に浮かばなかった。

【詩・俳句・短歌・歌詞】さようなら/谷川後太郎 ◎
この詩における「さようなら」は、死に際して、魂が身体に語りかける言葉。視点や表現として、とてもユニークで、死を無迎える暗さがないのも気持ちがヨイ。なかでも、最後の2行「泥に浴けよう空に消えよう/言葉なきものたちの仲間になろう」は、スマッシュをスパンと決めたような感覚で読めた。

【論考】こんな/ロラン・バルト △
俳句について。「俳句は何ものにも似ず、いっさいに似ている」と最初にあるのを読んで、いきなり迷子になった感じだ。筆者曰く、俳句は意味を排除しているという。また、「それはこんなだ」といった単なる指示であるとも語る。17音しかないのだから、それは意味の排除ではなく、行間の拡張、最大化ではないのだろうか。


リースマン【『一日一文 英知のことば』から学ぶ#131】


【5月10日】リースマン:1909.9.22~2002.5.10

私は常に物ごとをふたつのレベルで、同時に考えることが大事だと思っている。すなわち、一方では与えられたシステムの中での可能性を探求する改革者的な関心の持ち方、そして他方では基本的な変化についての長い時間幅のユートピア的な関心というふたつがそれである。これらふたつのレベルをごちゃまぜにして、現状維持に対する妥協なき攻撃を加える方が、はるかにやさしいことだ。(序文)

『孤独な群集 1961年新版』加藤秀俊訳、みすず書房、1964年

【アタクシ的メモ】
批判的精神において、短期的と長期的と2つの時間軸で考えることが重要ということだろうか。長期的な展望に立たぬまま、目の前ある問題だけに言及するのは簡単だというのは、その通りだと思う。


うんこよ きょうも げんきに でてこい【ブラッドベリ1000日チャレンジ#0156】


レイ・ブラッドベリさんが、「クリエイティブになるには、三種の読書を1000日続けよ」と仰っていたということで、短い物語(短編小説)、詩・俳句・短歌・歌詞、論考と三種類のテキストを毎日読みます。そして、何を読んで何を感じたかを、備忘録的に記録しています。

【短編小説】意識と無意識のあいだ――小さな男/リディア・デイヴィス ○
どうやら不眠症の女性の物語。夢かうつつかという記述ばかり、あくまで当人の感じていることでストーリーが構成されているためか、共感しづらいだけでなく、書かれでいるこどが、頭に入ってこなかった。完全なるフィクション、異世界をテキストで表現することの困難さを体現していたのではないだろうか。

【詩・俳句・短歌・歌詞】うんこ/谷川俊太郎 ◎
最終連の「うんこよ きょうも/げんきに でてこい」が、秀逸で、とても清々しい詩であった。幼い頃から、うんこは忌み嫌うものの代表格であるが、人はもちろん、生物が生きるのには欠かせないものであるし、生態系の中でもちゃんと役割がある。そうした見逃しやすい事実を、やさしく、やわらかい言葉で、再認識さてくれたのだった。

【論考】偶発時/ロラン・バルト △
今回は、テーマ自体がつかめないくらい、よく分からなかった。冒頭の「西洋の芸術は《印象》を描写に変形する。俳句は決して描写しない」という部分を読んでも、頭にはクエスチョンが浮んだ。そもそも文字数が少ない俳句は、描写を避け、核となる言葉だけで構成されると言いたかったのだろうか。


オルテガ・イ・ガセット【『一日一文 英知のことば』から学ぶ#130】


【5月9日】オルテガ・イ・ガセット:1883.5.9~1955.10.18

群衆はとつじょとして姿を現わし、社会における最良の場所を占めたのである。以前には、群衆は存在していたとしても、人目にはふれなかった。群衆は社会という舞台の背景にいたのである。ところが今や舞台の前面に進み出て、主要人物となった。もはや主役はいない。いるのは合唱隊のみである。

『大衆の反逆』神吉敬三訳、角川文庫、1989年

【アタクシ的メモ】
王や皇帝のような統治者ではない、大衆の台頭を述べているのだろう。ではなぜ、群衆は姿を現し、主要人物となったのかも、説明(引用)してくれるとよかったのだが。