気づいたら多様性の時代【ブラッドベリ1000日チャレンジ#0153】


レイ・ブラッドベリさんが、「クリエイティブになるには、三種の読書を1000日続けよ」と仰っていたということで、短い物語(短編小説)、詩・俳句・短歌・歌詞、論考と三種類のテキストを毎日読みます。そして、何を読んで何を感じたかを、備忘録的に記録しています。

【短編小説】太陽/森絵都 ○
「すべてのものは失われる」という一文から始まるものの、何だかほっこりする短編だった。作中にコロナの言及もあり、コロナ禍を経験した世界であることが前提で、主人公と歯科医である風間先生が、ある意味立場を超えて、話し合っているのが心地ヨイのだろう。偶然の出会いではあるが、心理的安全性が担保されている関係なのかもしれない。

【詩・俳句・短歌・歌詞】ぼくのゆめ/谷川後太郎 ○
詩の中で、「ぼく」は、「いいひとになりたい」と語る。しかし、おとなはそれおを、「もっとでっかいゆめがあるだろう?」と否定する、おとなが言う「でっかいゆめ」とは、えらくて、かねもちのようである。ただ、これらは今、それほど価値あるとは思われていないだろう。気づいたら、多様性の時代がやって来ていて、誰も同じ夢を見なくなっているのだった。

【論考】平身低頭/ロラン・バルト ○
西洋では無作法であることが真実であり、日本人の平身低頭するお辞儀のような礼儀は、空虚の行使だと、筆者は指摘する。当時の西洋人から見れば、ひどく非日常的な行為で、そう解釈したくなるのかもしれないが、空虚は言いすぎだろう。型にはまることで、気持ちが生まれてくることもあるはずだ。


ホメロス【『一日一文 英知のことば』から学ぶ#127】


【5月6日】ホメロス:生没年不詳

さて駿足のアキレウスが、ヘクトルを休みなく激しく追い立てるさまは、山の中で犬が仔鹿を追うよう、その巣から狩り出し山間の低地を追ってゆく、灌木の茂みにかがんで身を潜めても、嗅ぎ出しではどこまでも追い、遂には捕える——そのようにヘクトルも駿足のペレウスの子から身を隠すことができぬ。

『ホメロス イリアス』(下)、松平千秋訳、岩波文庫、1992年

【アタクシ的メモ】
「アキレスと亀」という話がある。アキレス(アキレウス)がどんなに駿足だったとしても、先を行く亀には、論理的には追いつけないという内容だ。しかし、現実は違っている。


内面は外面を支配していない【ブラッドベリ1000日チャレンジ#0152】


レイ・ブラッドベリさんが、「クリエイティブになるには、三種の読書を1000日続けよ」と仰っていたということで、短い物語(短編小説)、詩・俳句・短歌・歌詞、論考と三種類のテキストを毎日読みます。そして、何を読んで何を感じたかを、備忘録的に記録しています。

【短編小説】魚の記憶/三浦しをん ◎
主人公や甥、甥の母親である主人公の妹などの人となりや考え方が、短編ではあるものの、結構丁寧に書かれていて、深く納得しながら読めた。また、老いについての捉え方は、自分は少し先のことではあるが、共感しながら受け止められたと思う。秀作だった。

【詩・俳句・短歌・歌詞】なくぞ/谷川後太郎 ○
泣く子と地頭には勝てぬという言葉もあるが、幼い子どもを育てていた時、本当に困ったのは泣かれること。泣かれたら、対処しなければならず、右往左往した。そうした記憶からも、子どもに「なくぞ」とすごまれたら、ビビってしまうし、「ないてうちゅうをぶっとばす」というのも、あながち嘘ではないと思う。

【論考】内部と外部/ロラン・バルト ○
三たび、文楽について。今回は少し分かったような気がする。筆者が指摘するのは、人形を操る人が、観客から見えていること。この人形遣いが神ではないこと。この構造は、西洋の形而上的因果関係とは異っており、内面にある「見えないもの=超越的な存在」によって、外面を支配をしていないことの証なのである。


屈原【『一日一文 英知のことば』から学ぶ#126】


【5月5日】屈原:前343頃~前277頃

滄浪の水 清まば
以て我が纓を濯う可し
滄浪の水 濁らば
以て我が足を濯う可し

青々とした水が清んだら、
それで自分の冠のひもを洗えばよい。
青々とした水が濁ったら、
それで自分の足を洗えばよい。

『新編 中国名詩選』(上)、川合康三編訳、岩波文庫、2015年

【アタクシ的メモ】
引用は、屈原と漁夫の対話の一部のようだ。「自ら身を汚すくらいなら私は死を選ぶ」と語った屈原に対して、「臨機応変に対応すべき」という漁夫の返答だとのこと。


ワクワクしたいのだけど【ブラッドベリ1000日チャレンジ#0151】


レイ・ブラッドベリさんが、「クリエイティブになるには、三種の読書を1000日続けよ」と仰っていたということで、短い物語(短編小説)、詩・俳句・短歌・歌詞、論考と三種類のテキストを毎日読みます。そして、何を読んで何を感じたかを、備忘録的に記録しています。

【短編小説】家族写真/松井玲奈 ○
十ニ歳くらいの女の子が、一人称で、客観的だったり、やや大人びた表現が出てくるのにはやや興ざめしたが、小説としてきちんと成立しているのにホッとした。最後は、主人公の希望通り、家族写真を撮るというハッピーエンドになる。それはそれでヨイのだが、そうならなかった理由が、忙しかったからだけでは、ちょっと弱いように感じた。

【詩・俳句・短歌・歌詞】ワククワ/谷川後太郎 ○
どんなことでも、ワクワクにつながるというスーパーポジティブな詩である。自分は割と悲観的な性格なので、こうした詩の重要性は理解でする。ただ、落ち込んでいる時などに読むと、あまり効果はなく、むしろ逆効果なのかもしれないと思った。

【論考】魂のあるものと魂なきもの/ロラン・バルト ○
再び文楽について。「この操り人形は《魂》というものの限界をはっきり示して、俳優の生きた肉体のなかにこそ美と真実と感情はあるのだと主張する」と筆者は語る。ただ、最後には、「つまるところは《魂》という概念を、文楽が追放する」とも書かれており、魂とは生命あるものくらいの意味しかないようにも感じる。


北原白秋【『一日一文 英知のことば』から学ぶ#125】


【5月4日】北原白秋:1885.1.25~1942.11.2

銀笛のごとも哀しく単調に過ぎもゆきにし夢なりしかな

いやはてに鬱金ざくらのかなしみのちりそめぬれば五月はきたる

かくまでも黒くかなしき色やあるわが思ふひとの春のまなざし

『桐の花』(『北原白秋歌集』高野公彦編、岩波文庫、1999年)

【アタクシ的メモ】
別の詩集で、北原白秋の詩をいくつか読んだが、短歌の方が表現が端的で、趣が感じられる。


世界はいつも歌に満ちている【ブラッドベリ1000日チャレンジ#0150】


レイ・ブラッドベリさんが、「クリエイティブになるには、三種の読書を1000日続けよ」と仰っていたということで、短い物語(短編小説)、詩・俳句・短歌・歌詞、論考と三種類のテキストを毎日読みます。そして、何を読んで何を感じたかを、備忘録的に記録しています。

【短編小説】四半世紀ノスタルジー/町屋良平 △
今回も読むのが苦痛だった。一読して分かりづらいという点だけでも、作品として微妙だと感じる。登場人物の描き方も、結構乱暴に思えた。なので、誰がどんな人かといったことも、ほとんど頭に入ってこず、そのまま話が進むので、理解できないという悪循環にしかならなかった。

【詩・俳句・短歌・歌詞】歌/谷川後太郎 ○
「だからぼく いつか死ぬときもきっと/歌っている/誰に聞こえなくても」と終わるのだが、タイトルにもなっている「歌」とは、文字通りソングのことなのだろうか。何かの比喩ではないのか。「いつも歌に満ちている」とも書かれているので、喜びの感情ではないかと思う。

【論考】三つの表現体/ロラン・バルト △
文楽について。何度か読んだが、今回もよく分からぬままだった。例えば、文楽は行為と身ぶりを分離すると書かれているが、行為とは何か、身ぶりとは何かについて、言及がない感じで、何とも煙に巻かれているような気分である。タイトルである三つの表現体も、何を指しているのか定かではなかった。


柳宗悦【『一日一文 英知のことば』から学ぶ#124】


【5月3日】柳宗悦:1889.3.21~1961.5.3

偉大な古作品は一つとして鑑賞品ではなく、実用品であったということを胸に明記する必要がある。いたずらに器を美のために作るなら、用にも堪えず美にも堪えぬ。用に即さずば工藝の美はあり得ない。これが工藝に潜む不動の法則である。

『民芸四十年』岩波文庫、1984年

【アタクシ的メモ】
美しさ、それだけで存在するのではないと思う。そうした意味でも、「用に即さずば工藝の美はあり得ない」という言葉に、深く納得する。


生まれることは意志と無関係【ブラッドベリ1000日チャレンジ#0149】


レイ・ブラッドベリさんが、「クリエイティブになるには、三種の読書を1000日続けよ」と仰っていたということで、短い物語(短編小説)、詩・俳句・短歌・歌詞、論考と三種類のテキストを毎日読みます。そして、何を読んで何を感じたかを、備忘録的に記録しています。

【短編小説】ディア・プルーデンス/星野智幸 △
読むのが苦痛だった。元々人間がだったが、自分で青虫になったという。その青虫はもちろん、動物たちにも言葉があるという。よくわからない。完全なるフィクションであるため、どんなことが起きても、読み手は受け入れなければならない。理(ことわり)やロゴスのない世界で、ストーリーは成立しないのではないか。

【詩・俳句・短歌・歌詞】生まれたよ ぼく/谷川俊太郎 ○
最近は、人が生まれることの暴力性(?)について、考えることが多い。生まれることは、まったくその人の意志とは無関存なのだ。そうしたことを考慮すると、この詩で示される、生まれてくるぼくのポジティブさや、前向きな点はとても素晴しいと思う。表現としては、「遺言する」や「忘れずに」がポイントになっているだろう。

【論考】包み/ロラン・バルト ○
「包みこんでいる内容はおおむね無意味なしろものである。つまり、内容の不毛が包みの豊饒と均衛がとれていない」ことが、日本の特殊性だという。包装が華美だと言いたいのだろうが、内容が不毛というのは、やや極言にも感じる。筆者の私見にすぎないのではないか。


丘浅次郎【『一日一文 英知のことば』から学ぶ#123】


【5月2日】丘浅次郎:1868.11.18~1944.5.2

初等教育においては、宜しく、信ずる働きと疑う働きとを何れも適当に養うことが必要である。疑うべき理由の有ることは何所までも疑い、信ずべき理由を見出したことは確かにこれを信じ、決して疑うべきことを疑わずに平気で居たり、また信ずべき理由の無いことを軽々しく信じたりすることの無い様に、脳力の発達を導くのが、真の教育であろう。(「疑いの教育」)

『近代日本思想体系9 丘浅次郎集』筑摩書房、1974年

【アタクシ的メモ】
知性は問いや疑問から生まれるので、上でいう「疑う働き」というのはとても重要であると思う。一方、「信ずる働き」というのは、理性だと考えられるから、理由なく信じてしまってはいけないのである。