心と体は別々に存在するのか?【ブラッドベリ1000日チャレンジ#0155】


レイ・ブラッドベリさんが、「クリエイティブになるには、三種の読書を1000日続けよ」と仰っていたということで、短い物語(短編小説)、詩・俳句・短歌・歌詞、論考と三種類のテキストを毎日読みます。そして、何を読んで何を感じたかを、備忘録的に記録しています。

【短編小説】オーランド夫人の恐れ/リディア・デイヴィス ○
犯罪や災害など、危険に対して神経症的に恐れる主人公。最初は、様々な出来事に対処できるように準備する描写があり、自分にも似たところがあると思ていたが、段々と妄想的、病的になり、私とは明らかに異った人物像であった。奇妙な行動を取る夫人を書くことで、何が言いたかったのだろうか。

【詩・俳句・短歌・歌詞】からだはいれもの/谷川俊太郎 ○
「こころ」と「からだ」とはであるという二元論を前提にした詩だ。それは事実だと思いつつ、それぞれが独立した存在だとは感じない自分もいる。詩の中にも「からだはいれもの」という表現があるが、そこに入るこころは唯一のはずだし、入れ替えられない、互いに影響し合っていることを考慮すれば、ニ元論は違うような気がしてくるのだった。

【論考】意味の疎外/ロラン・バルト △
今回は禅と俳句について。何度か読むが、理解するのがなかなか難しい(毎度のことではあるが)。筆者は、禅の《悟り》は、言語の宙吊り、コードの空白だといい、俳句においては、言語に見切りをつける点が関心事だと語る。日本的なものには、言語やその意味に満たされていないと指摘したいのだろうか。


ヴァイツゼッカー【『一日一文 英知のことば』から学ぶ#129】


【5月8日】ヴァイツゼッカー:1920.4.15~2015.1.31

罪の有無、老幼いずれを問わず、われわれ全員が過去を引き受けねばなりません。だれもが過去からの帰結に関わり合っており、過去に対する責任を負わされております。
心に刻みつづけることがなぜかくも重要なのかを理解するため、老幼たがいに助け合わねばなりません。また助け合えるのであります。
問題は過去を克服することではありません。さようなことができるわけはありません。後になって過去を変えたり、起こらなかったことにするわけにはまいりません。しかし過去に目を閉ざす者は結局のところ現在にも盲目となります。非人間的な行為を心に刻もうとしない者は、またそうした危険に陥りやすいのです。

『新版 荒れ野の40年——ヴァイツゼッカー大統領ドイツ終戦40周年記念演説』永井清彦訳・解説、岩波ブックレット、2009年

【アタクシ的メモ】
ヴァイツゼッカーは、西ドイツや統一ドイツの大統領だった人物。第二次世界大戦という過去を直視している点や、それを全員で引き受けようと提言する姿勢が素晴らしい。なかなか容易ではないだろうが。


やることがたくさんあるのに、ピアノを弾くことしかできない【ブラッドベリ1000日チャレンジ#0154】


レイ・ブラッドベリさんが、「クリエイティブになるには、三種の読書を1000日続けよ」と仰っていたということで、短い物語(短編小説)、詩・俳句・短歌・歌詞、論考と三種類のテキストを毎日読みます。そして、何を読んで何を感じたかを、備忘録的に記録しています。

【短編小説】話/リディア・デイヴィス ◎
淡々とした文章(少なくとも翻訳は)で、とある男女のコミュニケーションや行き違いを描いている。電話かけても出たり出なかったり、翌日のことを考えてしまうと、相手に時間を使いづらかったり、歯がゆい感じがとても生々しい。「翌朝旅に出る予定で、やることかたくさんあるのに、ピアノを弾くことしかできない」という表現も、個人的に強く興味をひいた。

【詩・俳句・短歌・歌詞】木綿私記/谷川俊太郎 ○
いわゆる詩的なテキストではないが、木綿(コットン)を題材に、自身のこと、歴史や文化に話を広げ、ミクロとマクロを行き来する感じは、見事だと思った。ただ、コットンという素材自体としては、現在は新しい素材が数多く開発、利用され、中心的な素材と言えい現在では、テーマとしてやや古めかしい印象があった。

【論考】意味の家宅侵入/ロラン・バルト △
今回は俳句について。全体的に、よく分からなかった。例えば最後に、「俳句の読解の企ては、言語を宙吊りにすることであって、言語を喚起することではないのだから」と書かれている。言語の宙吊りとは、どんなこと、あるいはどんな状態なのだろうか。タイトルになっている「意味の家宅侵入」も、「意味を突き通す」とだけしか説明されていない。


J.S.ミル【『一日一文 英知のことば』から学ぶ#128】


【5月7日】J.S.ミル:1806.5.20~1873.5.7

自分は今幸福かと自分の胸に問うて見れば、とたんに幸福ではなくなってしまう。幸福になる唯一の道は、幸福をでなく何かそれ以外のものを人生の目的にえらぶことである。自意識も細かな穿鑿心も自己究明も、すべてをその人生目的の上にそそぎこむがよい。そうすれば他の点で幸運な環境を与えられてさえいるなら、幸福などということをクヨクヨと考えなくとも、想像の中で幸福の先物買いをしたりむやみに問いつめて幸福をとり逃がしたりせずに、空気を吸いこむごとくいとも自然に幸福を満喫することになるのである。

『ミル自伝』朱牟田夏雄訳、岩波文庫、1960年

【アタクシ的メモ】
J.S.ミルなりの幸福論のようだが、「すべてをその人生目的の上にそそぎこむがよい。そうすれば他の点で幸運な環境を与えられてさえいるなら、(中略)自然に幸福を満喫することになるのである」というのが、抽象的すぎるというか、幸福を感じる回路がきちんと示されていないと思った。


気づいたら多様性の時代【ブラッドベリ1000日チャレンジ#0153】


レイ・ブラッドベリさんが、「クリエイティブになるには、三種の読書を1000日続けよ」と仰っていたということで、短い物語(短編小説)、詩・俳句・短歌・歌詞、論考と三種類のテキストを毎日読みます。そして、何を読んで何を感じたかを、備忘録的に記録しています。

【短編小説】太陽/森絵都 ○
「すべてのものは失われる」という一文から始まるものの、何だかほっこりする短編だった。作中にコロナの言及もあり、コロナ禍を経験した世界であることが前提で、主人公と歯科医である風間先生が、ある意味立場を超えて、話し合っているのが心地ヨイのだろう。偶然の出会いではあるが、心理的安全性が担保されている関係なのかもしれない。

【詩・俳句・短歌・歌詞】ぼくのゆめ/谷川後太郎 ○
詩の中で、「ぼく」は、「いいひとになりたい」と語る。しかし、おとなはそれおを、「もっとでっかいゆめがあるだろう?」と否定する、おとなが言う「でっかいゆめ」とは、えらくて、かねもちのようである。ただ、これらは今、それほど価値あるとは思われていないだろう。気づいたら、多様性の時代がやって来ていて、誰も同じ夢を見なくなっているのだった。

【論考】平身低頭/ロラン・バルト ○
西洋では無作法であることが真実であり、日本人の平身低頭するお辞儀のような礼儀は、空虚の行使だと、筆者は指摘する。当時の西洋人から見れば、ひどく非日常的な行為で、そう解釈したくなるのかもしれないが、空虚は言いすぎだろう。型にはまることで、気持ちが生まれてくることもあるはずだ。


ホメロス【『一日一文 英知のことば』から学ぶ#127】


【5月6日】ホメロス:生没年不詳

さて駿足のアキレウスが、ヘクトルを休みなく激しく追い立てるさまは、山の中で犬が仔鹿を追うよう、その巣から狩り出し山間の低地を追ってゆく、灌木の茂みにかがんで身を潜めても、嗅ぎ出しではどこまでも追い、遂には捕える——そのようにヘクトルも駿足のペレウスの子から身を隠すことができぬ。

『ホメロス イリアス』(下)、松平千秋訳、岩波文庫、1992年

【アタクシ的メモ】
「アキレスと亀」という話がある。アキレス(アキレウス)がどんなに駿足だったとしても、先を行く亀には、論理的には追いつけないという内容だ。しかし、現実は違っている。


内面は外面を支配していない【ブラッドベリ1000日チャレンジ#0152】


レイ・ブラッドベリさんが、「クリエイティブになるには、三種の読書を1000日続けよ」と仰っていたということで、短い物語(短編小説)、詩・俳句・短歌・歌詞、論考と三種類のテキストを毎日読みます。そして、何を読んで何を感じたかを、備忘録的に記録しています。

【短編小説】魚の記憶/三浦しをん ◎
主人公や甥、甥の母親である主人公の妹などの人となりや考え方が、短編ではあるものの、結構丁寧に書かれていて、深く納得しながら読めた。また、老いについての捉え方は、自分は少し先のことではあるが、共感しながら受け止められたと思う。秀作だった。

【詩・俳句・短歌・歌詞】なくぞ/谷川後太郎 ○
泣く子と地頭には勝てぬという言葉もあるが、幼い子どもを育てていた時、本当に困ったのは泣かれること。泣かれたら、対処しなければならず、右往左往した。そうした記憶からも、子どもに「なくぞ」とすごまれたら、ビビってしまうし、「ないてうちゅうをぶっとばす」というのも、あながち嘘ではないと思う。

【論考】内部と外部/ロラン・バルト ○
三たび、文楽について。今回は少し分かったような気がする。筆者が指摘するのは、人形を操る人が、観客から見えていること。この人形遣いが神ではないこと。この構造は、西洋の形而上的因果関係とは異っており、内面にある「見えないもの=超越的な存在」によって、外面を支配をしていないことの証なのである。


屈原【『一日一文 英知のことば』から学ぶ#126】


【5月5日】屈原:前343頃~前277頃

滄浪の水 清まば
以て我が纓を濯う可し
滄浪の水 濁らば
以て我が足を濯う可し

青々とした水が清んだら、
それで自分の冠のひもを洗えばよい。
青々とした水が濁ったら、
それで自分の足を洗えばよい。

『新編 中国名詩選』(上)、川合康三編訳、岩波文庫、2015年

【アタクシ的メモ】
引用は、屈原と漁夫の対話の一部のようだ。「自ら身を汚すくらいなら私は死を選ぶ」と語った屈原に対して、「臨機応変に対応すべき」という漁夫の返答だとのこと。


ワクワクしたいのだけど【ブラッドベリ1000日チャレンジ#0151】


レイ・ブラッドベリさんが、「クリエイティブになるには、三種の読書を1000日続けよ」と仰っていたということで、短い物語(短編小説)、詩・俳句・短歌・歌詞、論考と三種類のテキストを毎日読みます。そして、何を読んで何を感じたかを、備忘録的に記録しています。

【短編小説】家族写真/松井玲奈 ○
十ニ歳くらいの女の子が、一人称で、客観的だったり、やや大人びた表現が出てくるのにはやや興ざめしたが、小説としてきちんと成立しているのにホッとした。最後は、主人公の希望通り、家族写真を撮るというハッピーエンドになる。それはそれでヨイのだが、そうならなかった理由が、忙しかったからだけでは、ちょっと弱いように感じた。

【詩・俳句・短歌・歌詞】ワククワ/谷川後太郎 ○
どんなことでも、ワクワクにつながるというスーパーポジティブな詩である。自分は割と悲観的な性格なので、こうした詩の重要性は理解でする。ただ、落ち込んでいる時などに読むと、あまり効果はなく、むしろ逆効果なのかもしれないと思った。

【論考】魂のあるものと魂なきもの/ロラン・バルト ○
再び文楽について。「この操り人形は《魂》というものの限界をはっきり示して、俳優の生きた肉体のなかにこそ美と真実と感情はあるのだと主張する」と筆者は語る。ただ、最後には、「つまるところは《魂》という概念を、文楽が追放する」とも書かれており、魂とは生命あるものくらいの意味しかないようにも感じる。


北原白秋【『一日一文 英知のことば』から学ぶ#125】


【5月4日】北原白秋:1885.1.25~1942.11.2

銀笛のごとも哀しく単調に過ぎもゆきにし夢なりしかな

いやはてに鬱金ざくらのかなしみのちりそめぬれば五月はきたる

かくまでも黒くかなしき色やあるわが思ふひとの春のまなざし

『桐の花』(『北原白秋歌集』高野公彦編、岩波文庫、1999年)

【アタクシ的メモ】
別の詩集で、北原白秋の詩をいくつか読んだが、短歌の方が表現が端的で、趣が感じられる。