むかしわたしはこむぎでした【ブラッドベリ1000日チャレンジ#0158】


レイ・ブラッドベリさんが、「クリエイティブになるには、三種の読書を1000日続けよ」と仰っていたということで、短い物語(短編小説)、詩・俳句・短歌・歌詞、論考と三種類のテキストを毎日読みます。そして、何を読んで何を感じたかを、備忘録的に記録しています。

【短編小説】バードフ氏、ドイツに行く/リディア・デイヴィス ○
小見出し付きの文章は、まとめもあり、小説というよりはレポートのような体裁である。記述も客観的な視点で、出来事を羅列する感じで、これまで以上に淡々とした印象になった。最初に、バードフ氏の矢敗を予告していることもあるかもしれない。難解さはないが、読む気持らが高まわけでもない。

【詩・俳句・短歌・歌詞】ぱん/谷川俊太郎 ◎
ひらがなだけで書かれているので、幼い子でも読める点も素晴しいと思う。そして、私が一番気に入ったのは、「むかしわたしはこむぎでした」と原料にさかのぼっていくこと。これは物事の根源に帰ろうという態度だと思うし、こむぎを育む自然にも思考は回帰しており、作者の想像力の豊かさを証明していると思う。

【論考】文房具店/ロラン・バルト △
タイトル通り、文房具店について。まずはアメリカの文房具店について語り、その次はフランス。そして、日本の文房具店について論評する。しかし、ことごとく分からない。例えば「日本の文房具店のあつかう事物は、象形文字風の表現体(エクリチュール)である」という文を、どのようにて理解、解釈すればヨイのだろうか。


萩原朔太郎【『一日一文 英知のことば』から学ぶ#132】


【5月11日】萩原朔太郎:1886.11.1~1942.5.11

金魚のうろこは赤けれども
その目のいろのさびしさ。
さくらの花はさきてほころべども
かくばかり
なげきの淵に身をなげすてたる我の悲しさ。(「金魚」)

『萩原朔太郎詩集』三好達治選、岩波文庫、1981年

【アタクシ的メモ】
美しさと哀しさは、表裏一体なのだろうか。いや、美しさが存在するからこそ、哀しみが顕著になっていくのであろう。


言葉なきものたちの仲間になる【ブラッドベリ1000日チャレンジ#0157】


レイ・ブラッドベリさんが、「クリエイティブになるには、三種の読書を1000日続けよ」と仰っていたということで、短い物語(短編小説)、詩・俳句・短歌・歌詞、論考と三種類のテキストを毎日読みます。そして、何を読んで何を感じたかを、備忘録的に記録しています。

【短編小説】分解する/リディア・デイヴィス ○
2度ほど読んだが、何とも頭に入っていなかった感じだ。ストーリーとしては、ある男性が女性との一度の関係について、分析するというか、収支を計算するのだが、時間軸も明確ではないし、情景描写もほとんどないため、テキストを読んでも、あまり具体的なイメージが頭に浮かばなかった。

【詩・俳句・短歌・歌詞】さようなら/谷川後太郎 ◎
この詩における「さようなら」は、死に際して、魂が身体に語りかける言葉。視点や表現として、とてもユニークで、死を無迎える暗さがないのも気持ちがヨイ。なかでも、最後の2行「泥に浴けよう空に消えよう/言葉なきものたちの仲間になろう」は、スマッシュをスパンと決めたような感覚で読めた。

【論考】こんな/ロラン・バルト △
俳句について。「俳句は何ものにも似ず、いっさいに似ている」と最初にあるのを読んで、いきなり迷子になった感じだ。筆者曰く、俳句は意味を排除しているという。また、「それはこんなだ」といった単なる指示であるとも語る。17音しかないのだから、それは意味の排除ではなく、行間の拡張、最大化ではないのだろうか。


リースマン【『一日一文 英知のことば』から学ぶ#131】


【5月10日】リースマン:1909.9.22~2002.5.10

私は常に物ごとをふたつのレベルで、同時に考えることが大事だと思っている。すなわち、一方では与えられたシステムの中での可能性を探求する改革者的な関心の持ち方、そして他方では基本的な変化についての長い時間幅のユートピア的な関心というふたつがそれである。これらふたつのレベルをごちゃまぜにして、現状維持に対する妥協なき攻撃を加える方が、はるかにやさしいことだ。(序文)

『孤独な群集 1961年新版』加藤秀俊訳、みすず書房、1964年

【アタクシ的メモ】
批判的精神において、短期的と長期的と2つの時間軸で考えることが重要ということだろうか。長期的な展望に立たぬまま、目の前ある問題だけに言及するのは簡単だというのは、その通りだと思う。


うんこよ きょうも げんきに でてこい【ブラッドベリ1000日チャレンジ#0156】


レイ・ブラッドベリさんが、「クリエイティブになるには、三種の読書を1000日続けよ」と仰っていたということで、短い物語(短編小説)、詩・俳句・短歌・歌詞、論考と三種類のテキストを毎日読みます。そして、何を読んで何を感じたかを、備忘録的に記録しています。

【短編小説】意識と無意識のあいだ――小さな男/リディア・デイヴィス ○
どうやら不眠症の女性の物語。夢かうつつかという記述ばかり、あくまで当人の感じていることでストーリーが構成されているためか、共感しづらいだけでなく、書かれでいるこどが、頭に入ってこなかった。完全なるフィクション、異世界をテキストで表現することの困難さを体現していたのではないだろうか。

【詩・俳句・短歌・歌詞】うんこ/谷川俊太郎 ◎
最終連の「うんこよ きょうも/げんきに でてこい」が、秀逸で、とても清々しい詩であった。幼い頃から、うんこは忌み嫌うものの代表格であるが、人はもちろん、生物が生きるのには欠かせないものであるし、生態系の中でもちゃんと役割がある。そうした見逃しやすい事実を、やさしく、やわらかい言葉で、再認識さてくれたのだった。

【論考】偶発時/ロラン・バルト △
今回は、テーマ自体がつかめないくらい、よく分からなかった。冒頭の「西洋の芸術は《印象》を描写に変形する。俳句は決して描写しない」という部分を読んでも、頭にはクエスチョンが浮んだ。そもそも文字数が少ない俳句は、描写を避け、核となる言葉だけで構成されると言いたかったのだろうか。


オルテガ・イ・ガセット【『一日一文 英知のことば』から学ぶ#130】


【5月9日】オルテガ・イ・ガセット:1883.5.9~1955.10.18

群衆はとつじょとして姿を現わし、社会における最良の場所を占めたのである。以前には、群衆は存在していたとしても、人目にはふれなかった。群衆は社会という舞台の背景にいたのである。ところが今や舞台の前面に進み出て、主要人物となった。もはや主役はいない。いるのは合唱隊のみである。

『大衆の反逆』神吉敬三訳、角川文庫、1989年

【アタクシ的メモ】
王や皇帝のような統治者ではない、大衆の台頭を述べているのだろう。ではなぜ、群衆は姿を現し、主要人物となったのかも、説明(引用)してくれるとよかったのだが。


心と体は別々に存在するのか?【ブラッドベリ1000日チャレンジ#0155】


レイ・ブラッドベリさんが、「クリエイティブになるには、三種の読書を1000日続けよ」と仰っていたということで、短い物語(短編小説)、詩・俳句・短歌・歌詞、論考と三種類のテキストを毎日読みます。そして、何を読んで何を感じたかを、備忘録的に記録しています。

【短編小説】オーランド夫人の恐れ/リディア・デイヴィス ○
犯罪や災害など、危険に対して神経症的に恐れる主人公。最初は、様々な出来事に対処できるように準備する描写があり、自分にも似たところがあると思ていたが、段々と妄想的、病的になり、私とは明らかに異った人物像であった。奇妙な行動を取る夫人を書くことで、何が言いたかったのだろうか。

【詩・俳句・短歌・歌詞】からだはいれもの/谷川俊太郎 ○
「こころ」と「からだ」とはであるという二元論を前提にした詩だ。それは事実だと思いつつ、それぞれが独立した存在だとは感じない自分もいる。詩の中にも「からだはいれもの」という表現があるが、そこに入るこころは唯一のはずだし、入れ替えられない、互いに影響し合っていることを考慮すれば、ニ元論は違うような気がしてくるのだった。

【論考】意味の疎外/ロラン・バルト △
今回は禅と俳句について。何度か読むが、理解するのがなかなか難しい(毎度のことではあるが)。筆者は、禅の《悟り》は、言語の宙吊り、コードの空白だといい、俳句においては、言語に見切りをつける点が関心事だと語る。日本的なものには、言語やその意味に満たされていないと指摘したいのだろうか。


ヴァイツゼッカー【『一日一文 英知のことば』から学ぶ#129】


【5月8日】ヴァイツゼッカー:1920.4.15~2015.1.31

罪の有無、老幼いずれを問わず、われわれ全員が過去を引き受けねばなりません。だれもが過去からの帰結に関わり合っており、過去に対する責任を負わされております。
心に刻みつづけることがなぜかくも重要なのかを理解するため、老幼たがいに助け合わねばなりません。また助け合えるのであります。
問題は過去を克服することではありません。さようなことができるわけはありません。後になって過去を変えたり、起こらなかったことにするわけにはまいりません。しかし過去に目を閉ざす者は結局のところ現在にも盲目となります。非人間的な行為を心に刻もうとしない者は、またそうした危険に陥りやすいのです。

『新版 荒れ野の40年——ヴァイツゼッカー大統領ドイツ終戦40周年記念演説』永井清彦訳・解説、岩波ブックレット、2009年

【アタクシ的メモ】
ヴァイツゼッカーは、西ドイツや統一ドイツの大統領だった人物。第二次世界大戦という過去を直視している点や、それを全員で引き受けようと提言する姿勢が素晴らしい。なかなか容易ではないだろうが。


やることがたくさんあるのに、ピアノを弾くことしかできない【ブラッドベリ1000日チャレンジ#0154】


レイ・ブラッドベリさんが、「クリエイティブになるには、三種の読書を1000日続けよ」と仰っていたということで、短い物語(短編小説)、詩・俳句・短歌・歌詞、論考と三種類のテキストを毎日読みます。そして、何を読んで何を感じたかを、備忘録的に記録しています。

【短編小説】話/リディア・デイヴィス ◎
淡々とした文章(少なくとも翻訳は)で、とある男女のコミュニケーションや行き違いを描いている。電話かけても出たり出なかったり、翌日のことを考えてしまうと、相手に時間を使いづらかったり、歯がゆい感じがとても生々しい。「翌朝旅に出る予定で、やることかたくさんあるのに、ピアノを弾くことしかできない」という表現も、個人的に強く興味をひいた。

【詩・俳句・短歌・歌詞】木綿私記/谷川俊太郎 ○
いわゆる詩的なテキストではないが、木綿(コットン)を題材に、自身のこと、歴史や文化に話を広げ、ミクロとマクロを行き来する感じは、見事だと思った。ただ、コットンという素材自体としては、現在は新しい素材が数多く開発、利用され、中心的な素材と言えい現在では、テーマとしてやや古めかしい印象があった。

【論考】意味の家宅侵入/ロラン・バルト △
今回は俳句について。全体的に、よく分からなかった。例えば最後に、「俳句の読解の企ては、言語を宙吊りにすることであって、言語を喚起することではないのだから」と書かれている。言語の宙吊りとは、どんなこと、あるいはどんな状態なのだろうか。タイトルになっている「意味の家宅侵入」も、「意味を突き通す」とだけしか説明されていない。


J.S.ミル【『一日一文 英知のことば』から学ぶ#128】


【5月7日】J.S.ミル:1806.5.20~1873.5.7

自分は今幸福かと自分の胸に問うて見れば、とたんに幸福ではなくなってしまう。幸福になる唯一の道は、幸福をでなく何かそれ以外のものを人生の目的にえらぶことである。自意識も細かな穿鑿心も自己究明も、すべてをその人生目的の上にそそぎこむがよい。そうすれば他の点で幸運な環境を与えられてさえいるなら、幸福などということをクヨクヨと考えなくとも、想像の中で幸福の先物買いをしたりむやみに問いつめて幸福をとり逃がしたりせずに、空気を吸いこむごとくいとも自然に幸福を満喫することになるのである。

『ミル自伝』朱牟田夏雄訳、岩波文庫、1960年

【アタクシ的メモ】
J.S.ミルなりの幸福論のようだが、「すべてをその人生目的の上にそそぎこむがよい。そうすれば他の点で幸運な環境を与えられてさえいるなら、(中略)自然に幸福を満喫することになるのである」というのが、抽象的すぎるというか、幸福を感じる回路がきちんと示されていないと思った。