孔子【『一日一文 英知のことば』から学ぶ#064】


【3月4日】孔子:前551~前479

暮春には、春服既に成る。冠する者五、六人、童子六、七人、沂に浴し、舞雩に風し、詠じて帰らん。夫子、喟然として歎じて曰く、吾れは点に与せん。(『論語』先進)

春四月ともなれば、春の装いに着かえ、若者五、六人、子供六、七人をひきつれて遊山に出、沂水の川で浴し、舞雩の広場で風に吹かれ、歌を口ずさみながら帰ってきましょう。それを聞いた孔子が深い歎息をもらして、曰く、私は点に賛成だ。

『現代語訳 論語』宮崎市定、岩波現代文庫、2000年

【アタクシ的メモ】
「春になれば、その時の装いを着て、周りの若者や子供たちと山へ出かけ、歌をうたいながら家路につく、そうした平凡な日常を送るりたい」と語った弟子に対して、孔子もそれに同調したいと語ったようだ。


D.H.ロレンス【『一日一文 英知のことば』から学ぶ#062】


【3月2日】D.H.ロレンス:1885.9.11~1930.3.2

翌日彼女は森へ出かけた。曇った、静かな午後で、暗緑色の山藍が榛の矮林の下に拡がっていた。すべての樹木は音も立てずに芽を開こうとつとめていた。巨大な槲の木の樹液の、ものすごい昂まり。上へ上へと騰がって芽の先まで届き、そこで血のような赤銅色の、小さな焔かとも思われる若葉となって開こうとする力を、彼女は今日は自分のからだの中に感じた。それは上へ上へと脹れあがり、空に拡がる潮のようなものだった。

『完訳 チャタレイ夫人の恋人』伊藤整・伊藤礼訳、新潮文庫、1996年

【アタクシ的メモ】
森の情景描写かと思わせていたら、昂まりを「彼女のからだの中」に移行(スライド)させ、空に拡がる潮に例えるのだった。巧みな展開に感じる。


紫式部【『一日一文 英知のことば』から学ぶ#061】


【3月1日】紫式部:978頃~1014頃

午の時に、空晴れて朝日さしいでたる心地す。たひらかにおはしますうれしさのたぐひもなきに、をとこにさへおはしましけるよろこび、いかがはなのめならむ。昨日しをれくらし、今朝のほど朝霧におぼほれつる女房など、みなたちあかれつつやすむ。御前には、うちねびたる人々の、かかるをりふしつきづきしきさぶらむ。

『紫式部日記』池田亀鑑・秋山虔、岩波文庫、1964年

【アタクシ的メモ】
紫式部が仕えていた中宮彰子の出産についての記述のようだ。ただ、正直言って、英知のことばとは感じられなかった。古文が苦手なせいもあるけれど。


菅茶山【『一日一文 英知のことば』から学ぶ#060】


【2月29日】菅茶山:1748.2.2~1827.8.13

  冬夜の読書
雪は山堂を擁して樹影深し
檐鈴 動かず 夜沈沈
閑かに乱帙を収めて疑義を思う
一穂の青灯 万古の心

『菅茶山・六如』黒川洋一注(『江戸詩人選集』4、岩波書店、1990年

【アタクシ的メモ】
その時の状況を詠んだシンプルな内容だけでなく、疑問の箇所を考え続けていることで、遠い昔の人の心が見えてくるという点が、私は素晴らしいと思った。


メダウォー【『一日一文 英知のことば』から学ぶ#059】


【2月28日】メダウォー:1915.2.28~1987.10.2

根源的なことがらについての疑問、たとえば人間の起源や目的、運命などに関する問いに対しては、われわれは決して答えられないかもしれない。しかし、個人としてであれ、政治的な人間としてであれ、われわれは将来起こることがらに対して多少の発言権があるはずだ。われわれの運命は、われわれ自身が作るもの以外のどのようなものでありうるだろうか?

『科学の限界』加藤珪訳、地人書館、1987年

【アタクシ的メモ】
ノーベル賞を受賞した動物学者、免疫学者のようなので、人間が意志するかどうかということだけではなく、生物として自然と運命を切り開けるということなのだろうか。


スタインベック【『一日一文 英知のことば』から学ぶ#058】


【2月27日】スタインベック:1902.2.27~1968.12.20

壁を作り、家を建て、ダムを建設し、そしてその壁、家、ダムのなかに、そこばくの人間自身をそそぎこむこと、そして人間自身に、壁、家、ダムの力をそこばくでも取りいれること、その建設からたくましい筋肉を得、その構想から明瞭な線と形を獲得すること。なぜなら、人間は、この宇宙における、有機物、無機物を問わず、ほかのどんなものとも違って、自分の創り出すものを越えて成長し、自分の考えの階段を踏みのぼり、自分のなしとげたもののかなたに立ちあらわれるものだからだ。

『怒りのぶどう』(上)大橋健三郎訳、岩波文庫、1961年

【アタクシ的メモ】
「人間は、自分の成し遂げたものの彼方に立ち現れる」という通り、人間を非常に肯定的にとらえている。私も、自分が創り出すものを越えて、成長できるようになりたい。


ユゴー【『一日一文 英知のことば』から学ぶ#057】


【2月26日】ユゴー:1802.2.26~1885.5.22

人間の歴史は下水溝渠の歴史に反映している。死体投棄の溝渠はローマの歴史を語っていた。パリ―の下水道は古い恐るべきものだった。それは墳墓でもあり、避難所でもあった。罪悪、知力、社会の講義、信仰の自由、思想、窃盗、人間の法律が追跡するまた追跡したすべのものは、その穴の名に身を隠していた。十四世紀の木槌暴徒、十五世紀の外套盗賊、十六世紀のユーグノー派、十七世紀のモラン幻覚派、十八世紀の火傷強盗、などは皆そこに身を隠していた。百年前には、夜中短剣がそこから現れてきて人を刺し、また掏摸は身が危うくなるとそこに潜み込んだ。森に洞穴のあるごとく、パリ―には下水道があった。

『レ・ミゼラブル』四、豊島与志雄訳、岩波文庫、1987年

【アタクシ的メモ】
下水道が多くの人たちにとって、逃げ場になっていたのだろうか。これを読むだけではわからない。


蓮如【『一日一文 英知のことば』から学ぶ#056】


【2月25日】蓮如:1415.2.25~1499.3.25

一生すぎやすし。いまにいたりて、たれか百年の形体をたもつべきや。我やさき、人やさき、けふともしらず、あすとしらず、おくれさきだつ人は、もとのしづく、すゑの露よりもしげしといへり。されば、朝には紅顔ありて、夕には白骨となれる身なり。すでに無常の風きたりぬれば、すなわちふたつのまなこたちまちにとぢ、ひとつのいきながくたえぬれば、紅顔むなしく変じて、桃李のよそほひをうしなひぬるときは六親眷属あつまりて、なげきかなしめども、更にその甲斐あるべからず。

『蓮如文集』笠原一男校注、岩波文庫、1985年

【アタクシ的メモ】
「一生はすぎやすい」というように、人の無常を語っているよう。いつ何時、命を失うかもしれないのは、その通りだと思うが、その先の「だから~」が知りたかった。少し調べてみたら、「阿弥陀仏と念仏を唱えろ」となるようだ。


三木清【『一日一文 英知のことば』から学ぶ#055】


【2月24日】三木清:1897.1.5~1945.9.26

人生においては何事も偶然である。しかしまた人生においては何事も必然である。このような人生を我々は運命を称している。もし一切が必然であるなら運命というものは考えられないであろう。だがもし一切が偶然であるなら運命というものはまた考えられないであろう。偶然のものが必然の、必然のものが偶然の意味をもっている故に、人生は運命なのである。(「希望について」)

『三木清全集』1、岩波書店、1966年

【アタクシ的メモ】
上記をまとめると、「人生は偶然であり、必然である。それを運命と呼ぶから、人生は運命である」ということだと思うが、この後段は、「人生は偶然であり、必然であるからこそ、人は希望を持って生きられる」と続くようだ。秀逸。


ヤスパース【『一日一文 英知のことば』から学ぶ#054】


【2月23日】ヤスパース:1883.2.23~1969.2.26

状況の中に捲き込まれて私自身に目醒めつつ、私は存在への問いを発する。状況の中にある私自身を漠とした可能性として見いだしつつ、私は、私自身を本来的に発見するため、存在を探求しなければならない。しかも存在そのものを見いだそうとするこの試みの挫折の中でのみ、私は哲学するようになるのである。(「私たちの状況から哲学することの開始」)

『哲学 I 哲学的世界定位』武藤光朗訳、創文社、1997年

【アタクシ的メモ】
非情に入り組んだ記述。簡単にまとめると、私自身に目醒め、存在を探求し、そして挫折することにより、私は哲学するようになる、ということか。