ラスキ【『一日一文 英知のことば』から学ぶ#084】


【3月24日】ラスキ:1893.6.30~1950.3.24

一口にいえば、キリスト教が解決しようとした問題は、一方には貧民における貧困の存在と、他方には富者の富を侵犯から防衛する国家権力と、この二つをいかに和解させるかということにあった。そしてその問題を、一切露骨に本質だけをいえば、彼等は、貧民たちに、富者には困難な来世の救済を約束することによって、解決したのであった。

『信仰・理性・文明』中野好夫訳、岩波書店、1951年

【アタクシ的メモ】
貧しい人たちに対して、来世はきっと救われると説くことで、現状を納得してもらい、貧困と富の分断を継続させたということだろうか。それであれば、非常に皮肉な物言いであるし、やはりニーチェによるキリスト教批判を思い起こす。


イエス【『一日一文 英知のことば』から学ぶ#083】


【3月23日】イエス:前4頃~後28

さて、第六刻から地のすべてを闇が襲い、第九刻に及んだ。また、第九刻頃に、イエスは大声を上げて叫び、言った、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」。これは、わが神よ、わが神よ、なぜ私をお見棄てになったのか、という意味である。そこで、そこに立っていた者のうち何人かが、これを聞いて言い出した、「こいつはエリヤを呼んでいるぞ」。すると、すぐさま彼らの一人が走って行き、そして海綿をとって酢で満たした後、葦の先につけ、彼に飲まそうとした。しかしほかの者たちが言った、「やめろ。エリヤがやって来てこいつを救うかどうか、見てやることにしよう」。しかしイエスは、再び大声で叫びながら、息を引き取った。(『マタイによる福音書』)

『新約聖書I マルコによる福音書 マタイによる福音書』佐藤研訳、岩波書店、1995年

【アタクシ的メモ】
イエスが亡くなる場面。処刑されたのだから、ある意味当たり前なのかもしれないが、非常に残忍に扱われている。聖書の描写だからかもしれないが、亡くなる前に大声を出す姿に、少し違和感を感じた。


丸山真男【『一日一文 英知のことば』から学ぶ#082】


【3月22日】丸山真男:1914.3.22~1996.8.15

自由は置き物のようにそこにあるのでなく、現実の行使によってだけ守られる、いいかえれば日々自由になろうとすることによって、はじめて自由でありうるということなのです。その意味では近代社会の自由とか権利とかいうものは、どうやら世界の惰性を好む者、毎日の生活さえ安全に過ごせたら、物事の判断などはひとにあずけてもいいと思っている人、あるいはアームチェアから立ち上がるよりもそれに深々とよりかかっていたい気性の持主などにとっては、はなはだもって荷厄介なしろ物だといえましょう。(「「である」ことと「する」こと」)

『日本の思想』岩波新書、1961年

【アタクシ的メモ】
自由だけでなくほとんどの事柄、状態は、元から存在しているのではなく、人々の行動によって生成されるのだと思う。


ソクラテス【『一日一文 英知のことば』から学ぶ#081】


【3月21日】ソクラテス:前470~前399

しかしもう去るべき時が来た――私は死ぬために、諸君は生きながらえるために。もっとも我ら両者のうちのいずれがいっそう良き運命に出逢うか、それは神より外に誰も知る者がいない。(『ソクラテスの弁明』)

プラトン『ソクラテスの弁明 クリトン』久保勉訳、岩波文庫、1964年

【アタクシ的メモ】
「生」ではなく「死」であっても、それは時に「良き運命」になりうるということか。自身にとって過酷な判決であっても、法に従うことが良き行為だと言いたいのだろうか。


ライト・ミルズ【『一日一文 英知のことば』から学ぶ#080】


【3月20日】ライト・ミルズ:1916.8.28~1962.3.20

いかなる保守主義的イデオロギーをも持たぬ保守的な国家であるアメリカは、今や、むき出しの、恣意的な権力として、全世界の前に立ち現れている。その政策決定者たちは、現実主義の名において、世界の現実について気狂いじみた定義を下し、それを押しつけている。精神的能力においては第二級の人物が支配的地位を占め、凡庸なことを重々しくしゃべっている。そこでは自由主義的言辞と保守的ムードが蔓延し、前者では曖昧さが、後者では非合理性が原則となっている。

『パワー・エリート』(下)、鵜飼信成・綿貫譲治訳、東京大学出版会、1958年

【アタクシ的メモ】
書かれた当時の世界状況は、あまり定かではないが、アメリカが「世界の警察官」として、ある種覇権を握り始めたころの指摘であろうか。前者と後者と表現を分けているが、曖昧さと非合理性って結構似通っているようにも思うのだった。


ボンヘッファー【『一日一文 英知のことば』から学ぶ#079】


【3月19日】ボンヘッファー:1906.2.4~1945.4.9

愚かさは悪よりもはるかに危険な善の敵である。悪に対しては抗議することができる。それを暴露し、万一の場合には、これを力ずくで妨害することもできる。悪は、少なくとも人間の中に不快さを残していくことによって、いつも自己解体の萌芽をひそませている。愚かさにはどうしようもない。(『十年後』)

E・ベートゲ編『ボンヘッファー獄中書簡集』村上伸訳、新教出版社、1988年

【アタクシ的メモ】
「悪は、少なくとも人間の中に不快さを残していくことによって、いつも自己解体の萌芽をひそませている」という認識は、非常に鋭いと思う。私は全く気づいていなかったし、少なくとも言語化したことはなかった。


エーリッヒ・フロム【『一日一文 英知のことば』から学ぶ#078】


【3月18日】エーリッヒ・フロム:1900.3.23~1980.3.18

十九世紀においては神が死んだことが問題だったが、二十世紀では人間が死んだことが問題なのだ。十九世紀において、非人間性とは残忍という意味だったが、二十世紀では、非人間性は精神分裂病的な自己疎外を意味する。人間が奴隷になることが、過去の危険だった。未来の危険は、人間がロボットとなるかもしれないことである。たしかにロボットは反逆しない。しかし人間の本性を与えられていると、ロボットは生きられず、正気でいられない。

『正気の社会』加藤正明・佐瀬隆夫訳(『世界の名著』続14、中央公論社、1974年)

【アタクシ的メモ】
十九世紀の問題は、人間の外部にあり、二十世紀になって問題は人間に内在化されたということだろうか。エーリッヒ・フロムなら、『自由からの逃走』や『愛するということ』などがよく知られているので、この引用にはやや驚いた。


マルクス・アウレリウス【『一日一文 英知のことば』から学ぶ#077】


【3月17日】マルクス・アウレリウス:121.4.26~180.3.17

人は田舎や海岸や山にひきこもる場所を求める。君もまたそうした所に熱烈にあこがれる習癖がある。しかしこれはみなきわめて凡俗な考え方だ。というのは、君はいつでも好きなときに自分自身の内にひきこもることが出来るのである。実際いかなる所といえども、自分自身の魂の中にまさる平和な閑寂な隠家を見出すことはできないであろう。

『自省録』神谷美恵子訳、岩波文庫、1956年

【アタクシ的メモ】
ここで言う「自分自身の内」とは何か。次の文で言い換えている「自分自身の魂」ということであろうか。マルクス・アウレリウスにおける魂の定義はわからないが、一般的には心の働きを司るものと理解すれば、自身の精神に立ち戻ることが重要ということなのか。


額田王【『一日一文 英知のことば』から学ぶ#076】


【3月16日】額田王:生没年未詳

あかねさす紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖振る

熟田津に船乗りせむと月待てば潮もかなひぬ今は漕ぎ出でな

君待つと吾が恋ひをれば我が屋戸のすだれ動かし秋の風吹く

『万葉集』(一)(『日本古典文学大系』4、高木市之助ほか校注、岩波書店、1957年

【アタクシ的メモ】
言葉数も限りがあるし、いにしえの時代の短歌なので、詠まれていることはシンプルではあるが、どの首も情感がこもっている。


平塚らいてう【『一日一文 英知のことば』から学ぶ#075】


【3月15日】平塚らいてう:1886.2.10~1971.5.24

元始、女性は実に太陽であった。真正の人であった。
今、女性は月である。他に依って生き、他の光によって輝く病人のような蒼白い顔の月である。
私どもは隠されてしまった我が太陽を今や取り戻さねばならぬ。(『青踏』創刊の辞)

『平塚らいてう評論集』小林登美枝・米田佐代子編、岩波文庫、1987年

【アタクシ的メモ】
1911年に書かれたようだ。2023年にこれを読むと、ややリアリティに欠けてしまうが、当時はある意味、大きく大胆な宣言だったのだろう。