カッシーラー【『一日一文 英知のことば』から学ぶ#134】


【5月13日】カッシーラー:1874.7.28~1945.513

言語、神話、芸術を「シンボル形式」と呼ぶとき、この表現にはある前提がふくまれているように思われる。それは、言語も神話も芸術もすべて精神の形態化の特定の様式であって、それらはすべて、遡れば現実というただ一つの究極の基層に関わっているのであり、この基層が、あたかもある異質な媒体を透して見られるかのように、それらそれぞれのうちに見てとられるにすぎない、という前提である。現実というものは、われわれにはこうした形式の特性を介してしか捉ええないように思われるのだ。

『シンボル形式の哲学』(3)、木田元・村岡晋一訳、岩波文庫、1994年

【アタクシ的メモ】
言語、神話、芸術を「シンボル形式」とするなら、シンボル形式を通してしか、我々は現実を捉えられないという。私自身は正しい言説だと思う反面、ここでいう「現実」とはいったい何を言っているのだろうか。写真を撮って一瞬の光のありようを記録するように、そのありのままを記述することでも、現実は捉えられるのではないか。


ナイチンゲール【『一日一文 英知のことば』から学ぶ#133】


【5月12日】ナイチンゲール:1820.5.12~1910.8.13

子供たちに、新鮮な空気が入り、明るく、陽当りよく、広々とした教室と、涼しい寝室とを与え、また戸外でたっぷりと運動をさせよう。たとえ寒くて風の強い日でも、暖かく着込ませて充分に運動させ、あくまで自由に、子供自身の考えに任せて、指図はせずに、たっぷりと楽しませ遊ばせよう。もっと子供に解放と自然を与え、授業や詰めこみ勉強や、強制や訓練は、もっと減らそう。もっと食べ物に気をつかい、薬に気をつかうのはほどほどにしよう。(「ロンドンの子供たち」)

『看護覚え書』第6版、薄井坦子ほか編訳、現代社、2000年

【アタクシ的メモ】
専門的ではなく、プリミティブにも感じる提言ではあるが、現在読むと非常に首肯するし、正しいことを言っていると感じる。こうした考えは、18~19世紀にどのように捉えられたのだろう。


萩原朔太郎【『一日一文 英知のことば』から学ぶ#132】


【5月11日】萩原朔太郎:1886.11.1~1942.5.11

金魚のうろこは赤けれども
その目のいろのさびしさ。
さくらの花はさきてほころべども
かくばかり
なげきの淵に身をなげすてたる我の悲しさ。(「金魚」)

『萩原朔太郎詩集』三好達治選、岩波文庫、1981年

【アタクシ的メモ】
美しさと哀しさは、表裏一体なのだろうか。いや、美しさが存在するからこそ、哀しみが顕著になっていくのであろう。


リースマン【『一日一文 英知のことば』から学ぶ#131】


【5月10日】リースマン:1909.9.22~2002.5.10

私は常に物ごとをふたつのレベルで、同時に考えることが大事だと思っている。すなわち、一方では与えられたシステムの中での可能性を探求する改革者的な関心の持ち方、そして他方では基本的な変化についての長い時間幅のユートピア的な関心というふたつがそれである。これらふたつのレベルをごちゃまぜにして、現状維持に対する妥協なき攻撃を加える方が、はるかにやさしいことだ。(序文)

『孤独な群集 1961年新版』加藤秀俊訳、みすず書房、1964年

【アタクシ的メモ】
批判的精神において、短期的と長期的と2つの時間軸で考えることが重要ということだろうか。長期的な展望に立たぬまま、目の前ある問題だけに言及するのは簡単だというのは、その通りだと思う。


オルテガ・イ・ガセット【『一日一文 英知のことば』から学ぶ#130】


【5月9日】オルテガ・イ・ガセット:1883.5.9~1955.10.18

群衆はとつじょとして姿を現わし、社会における最良の場所を占めたのである。以前には、群衆は存在していたとしても、人目にはふれなかった。群衆は社会という舞台の背景にいたのである。ところが今や舞台の前面に進み出て、主要人物となった。もはや主役はいない。いるのは合唱隊のみである。

『大衆の反逆』神吉敬三訳、角川文庫、1989年

【アタクシ的メモ】
王や皇帝のような統治者ではない、大衆の台頭を述べているのだろう。ではなぜ、群衆は姿を現し、主要人物となったのかも、説明(引用)してくれるとよかったのだが。


ヴァイツゼッカー【『一日一文 英知のことば』から学ぶ#129】


【5月8日】ヴァイツゼッカー:1920.4.15~2015.1.31

罪の有無、老幼いずれを問わず、われわれ全員が過去を引き受けねばなりません。だれもが過去からの帰結に関わり合っており、過去に対する責任を負わされております。
心に刻みつづけることがなぜかくも重要なのかを理解するため、老幼たがいに助け合わねばなりません。また助け合えるのであります。
問題は過去を克服することではありません。さようなことができるわけはありません。後になって過去を変えたり、起こらなかったことにするわけにはまいりません。しかし過去に目を閉ざす者は結局のところ現在にも盲目となります。非人間的な行為を心に刻もうとしない者は、またそうした危険に陥りやすいのです。

『新版 荒れ野の40年——ヴァイツゼッカー大統領ドイツ終戦40周年記念演説』永井清彦訳・解説、岩波ブックレット、2009年

【アタクシ的メモ】
ヴァイツゼッカーは、西ドイツや統一ドイツの大統領だった人物。第二次世界大戦という過去を直視している点や、それを全員で引き受けようと提言する姿勢が素晴らしい。なかなか容易ではないだろうが。


J.S.ミル【『一日一文 英知のことば』から学ぶ#128】


【5月7日】J.S.ミル:1806.5.20~1873.5.7

自分は今幸福かと自分の胸に問うて見れば、とたんに幸福ではなくなってしまう。幸福になる唯一の道は、幸福をでなく何かそれ以外のものを人生の目的にえらぶことである。自意識も細かな穿鑿心も自己究明も、すべてをその人生目的の上にそそぎこむがよい。そうすれば他の点で幸運な環境を与えられてさえいるなら、幸福などということをクヨクヨと考えなくとも、想像の中で幸福の先物買いをしたりむやみに問いつめて幸福をとり逃がしたりせずに、空気を吸いこむごとくいとも自然に幸福を満喫することになるのである。

『ミル自伝』朱牟田夏雄訳、岩波文庫、1960年

【アタクシ的メモ】
J.S.ミルなりの幸福論のようだが、「すべてをその人生目的の上にそそぎこむがよい。そうすれば他の点で幸運な環境を与えられてさえいるなら、(中略)自然に幸福を満喫することになるのである」というのが、抽象的すぎるというか、幸福を感じる回路がきちんと示されていないと思った。


ホメロス【『一日一文 英知のことば』から学ぶ#127】


【5月6日】ホメロス:生没年不詳

さて駿足のアキレウスが、ヘクトルを休みなく激しく追い立てるさまは、山の中で犬が仔鹿を追うよう、その巣から狩り出し山間の低地を追ってゆく、灌木の茂みにかがんで身を潜めても、嗅ぎ出しではどこまでも追い、遂には捕える——そのようにヘクトルも駿足のペレウスの子から身を隠すことができぬ。

『ホメロス イリアス』(下)、松平千秋訳、岩波文庫、1992年

【アタクシ的メモ】
「アキレスと亀」という話がある。アキレス(アキレウス)がどんなに駿足だったとしても、先を行く亀には、論理的には追いつけないという内容だ。しかし、現実は違っている。


屈原【『一日一文 英知のことば』から学ぶ#126】


【5月5日】屈原:前343頃~前277頃

滄浪の水 清まば
以て我が纓を濯う可し
滄浪の水 濁らば
以て我が足を濯う可し

青々とした水が清んだら、
それで自分の冠のひもを洗えばよい。
青々とした水が濁ったら、
それで自分の足を洗えばよい。

『新編 中国名詩選』(上)、川合康三編訳、岩波文庫、2015年

【アタクシ的メモ】
引用は、屈原と漁夫の対話の一部のようだ。「自ら身を汚すくらいなら私は死を選ぶ」と語った屈原に対して、「臨機応変に対応すべき」という漁夫の返答だとのこと。


北原白秋【『一日一文 英知のことば』から学ぶ#125】


【5月4日】北原白秋:1885.1.25~1942.11.2

銀笛のごとも哀しく単調に過ぎもゆきにし夢なりしかな

いやはてに鬱金ざくらのかなしみのちりそめぬれば五月はきたる

かくまでも黒くかなしき色やあるわが思ふひとの春のまなざし

『桐の花』(『北原白秋歌集』高野公彦編、岩波文庫、1999年)

【アタクシ的メモ】
別の詩集で、北原白秋の詩をいくつか読んだが、短歌の方が表現が端的で、趣が感じられる。