柳宗悦【『一日一文 英知のことば』から学ぶ#124】


【5月3日】柳宗悦:1889.3.21~1961.5.3

偉大な古作品は一つとして鑑賞品ではなく、実用品であったということを胸に明記する必要がある。いたずらに器を美のために作るなら、用にも堪えず美にも堪えぬ。用に即さずば工藝の美はあり得ない。これが工藝に潜む不動の法則である。

『民芸四十年』岩波文庫、1984年

【アタクシ的メモ】
美しさ、それだけで存在するのではないと思う。そうした意味でも、「用に即さずば工藝の美はあり得ない」という言葉に、深く納得する。


丘浅次郎【『一日一文 英知のことば』から学ぶ#123】


【5月2日】丘浅次郎:1868.11.18~1944.5.2

初等教育においては、宜しく、信ずる働きと疑う働きとを何れも適当に養うことが必要である。疑うべき理由の有ることは何所までも疑い、信ずべき理由を見出したことは確かにこれを信じ、決して疑うべきことを疑わずに平気で居たり、また信ずべき理由の無いことを軽々しく信じたりすることの無い様に、脳力の発達を導くのが、真の教育であろう。(「疑いの教育」)

『近代日本思想体系9 丘浅次郎集』筑摩書房、1974年

【アタクシ的メモ】
知性は問いや疑問から生まれるので、上でいう「疑う働き」というのはとても重要であると思う。一方、「信ずる働き」というのは、理性だと考えられるから、理由なく信じてしまってはいけないのである。


メルロ=ポンティ【『一日一文 英知のことば』から学ぶ#122】


【5月1日】メルロ=ポンティ:1908.3.14~1961.5.3

現象学はバルザックの作品、プルーストの作品、ヴァレリーの作品、あるいはセザンヌの作品と同じように、不断の辛苦である——おなじ種類の注意と驚異とをもって、おなじような意識の厳密さをもって、世界や歴史の意味をその生まれ出づる状態において捉えようとするおなじ意志によって。

『知覚の現象学』1、竹内芳郎・小木貞孝訳、みすず書房、1967年

【アタクシ的メモ】
現象学では、「現象を作り出すのは人間の認識である」というような考え方するようだ。「世界や歴史の意味をその生まれ出づる状態において捉えようとする」ということに集約できるのかもしれない。


鏑木清方【『一日一文 英知のことば』から学ぶ#121】


【4月30日】鏑木清方:1878.8.31~1972.3.2

鶸色に萌えた楓の若葉に、ゆく春をおくる雨が注ぐ。あげ潮どきの川水に、その水滴は数かぎりない渦を描いて、消えては結び、結んでは消ゆるうたかたの、久しい昔の思い出が、色の褪せた版画のように、築地川の流れをめぐってあれこれと偲ばれる。(「築地川」)

『随筆集 明治の東京』山田肇編、岩波文庫、1989年

【アタクシ的メモ】
鶸色(ひわいろ)とは、明るい黄がちの黄緑色のことだそうだ。日本画家だったが、随筆もよく書いたようで、色味も繊細だし、流麗な文章だと思う。


ウィトゲンシュタイン【『一日一文 英知のことば』から学ぶ#120】


【4月29日】ウィトゲンシュタイン:1889.4.26~1951.4.29

本書は哲学の諸問題を扱っており、そして——私の信ずるところでは——それらの問題がわれわれの言語の論理に対する誤解から生じていることを示している。本書が全体としてもつ意義は、おおむね次のように要約されよう。およそ語られうることは明晰に語られうる。そして、論じえないことについては、ひとは沈黙せねばならない。

『論理哲学論考』野矢茂樹訳、岩波文庫、2003年

【アタクシ的メモ】
「論じえないことについては、ひとは沈黙せねばならない」は、とても好きな言葉。翻訳でも、ちゃんと『論理哲学論考』を読んでいないから、なんちゃってなんだろうけど。


中里介山【『一日一文 英知のことば』から学ぶ#119】


【4月28日】中里介山:1885.4.4~1944.4.28

大菩薩峠は江戸を西に距る三十里、甲州裏街道が甲斐国東山梨郡萩原村に入って、その最も高く最も険しきところ、上下八里にまたがる難所がそれです。
標高六千四百尺、昔、貴き聖が、この嶺みねの頂に立って、東に落つる水も清かれ、西に落つる水も清かれと祈って、菩薩の像を埋めて置いた、それから東に落つる水は多摩川となり、西に流るるは笛吹川となり、いずれも流れの末永く人を湿おし田を実らすと申し伝えられてあります。(『大菩薩峠』)

『中里介山全集』第1巻、筑摩書房、1970年

【アタクシ的メモ】
中里介山の代表作『大菩薩峠』の冒頭部分を引用したようだ。単なる場所の説明だとも言えるが、視点が高いところにあるようで、趣が感じられると思った。


ラ・ブリュイエール【『一日一文 英知のことば』から学ぶ#118】


【4月27日】ラ・ブリュイエール:1645.8.16~1696.5.10

幸福になる前に笑っておかなければならぬ。笑わぬうちに死んでしまうようなことにならぬとも限らないから。(第4章 心情について)

人間にとっては唯三つの事件しかない。生まれること、生きること、死ぬこと。生まれる時は感じない。死ぬ時は苦しい。しかも生きている時は忘れている。(第11章 人間について)

『カラクテール』(上)(中)、関根秀雄訳、岩波文庫、1952-53年

【アタクシ的メモ】
言葉の切れ味が鋭すぎて、驚くと同時に、ラ・ブリュイエールに強く興味が沸いた。引用元の『カラクテール』は、古代ギリシア哲学者デオフラストスの翻訳でもあるようなので、デオフラストスの『人さまざま』も読んでみたくなった。まさに知の数珠つなぎである。


デフォー【『一日一文 英知のことば』から学ぶ#117】


【4月26日】デフォー:1660頃~1731.4.26

ある日のことであった。正午ごろ、舟のほうへゆこうとしていた私は海岸に人間の裸の足跡をみつけてまったく愕然とした。砂の上に紛れもない足跡が一つはっきりと残されているではないか。私は棒立ちになったままたちすくんだ。まさしく青天のへきれきであった。それとも私は幽霊をみたのであったろうか。耳をすまし、あたりを見まわしたが、なにも聞こえなかった。なにもみえなかった。もっと遠くをみようと、小高いところにもかけ登った。浜辺も走りまわった。しかしけっきょくは同じで、その足跡のほかはなにもみることはできなかった。

『ロビンソン・クルーソー』(上)、平井正穂訳、岩波文庫、1967年

【アタクシ的メモ】
主人公ロビンソンは乗っていた船が難破し、無人島に漂着。そこで誰にも頼らず、28年間に渡って生き抜くという苛酷な体験をしたようだ。それであれば、人の存在を予感させるものに出会えば、とても興奮するだろう。


与謝蕪村【『一日一文 英知のことば』から学ぶ#116】


【4月25日】与謝蕪村:1716~1783.12.25

青楼の御意見承知いたし候。御尤もの一書、御句にて小糸が情も今日限に候。よしなき風流、老の面目をうしなひ申候。禁すべし。さりながらもとめ得たる句、御披判可被下候。
  妹がかきね三線草の花さきぬ
これ、泥に入て玉を拾ふたる心地に候。此ほどの机上のたのしびぐさに候。(弟子道立書簡、天明3年4月25日)

大谷晃一『与謝蕪村』河出書房新社、1996年より

【アタクシ的メモ】
検索などでも調べ、何度も読んで、色々と読解を試みたが、全文の意味はわからないままであった。それでも、引用の箇所は、どうやら小糸という若い女性に蕪村が熱を上げていて、別れることに決めたときの書簡のようだ。やれやれ。


ボルヘス【『一日一文 英知のことば』から学ぶ#115】


【4月24日】ボルヘス:1899.8.24~1986.6.14

大乗仏教の哲人たちは、宇宙の本質は空であると説いている。同じ宇宙の一小部分であるこの本に関する限り、彼らの言うところはまったく正しい。絞首台や海賊たちがこの本をにぎわわしており、標題の「汚辱」という言葉は大仰だが、無意味な空騒ぎの背後には何もない。すべて見せかけに過ぎず、影絵に等しいのである。だがほかならぬその理由が、面白さを保証するだろう。(「汚辱の世界史」1954年版、序)

『砂の本』篠田一士訳、集英社文庫、1995年

【アタクシ的メモ】
「無意味な空騒ぎの背後には何もない。すべて見せかけに過ぎず、影絵に等しいのである」というのは、この宇宙についてなのか、汚辱についてなのか。