ロラン・バルト【『一日一文 英知のことば』から学ぶ#053】


【2月22日】ロラン・バルト:1915.11.12~1980.3.26

構造主義は世界から歴史を抜きさるのではない。構造主義は歴史に、内容だけではなく(これは何度となくなされてきたことだ)、形式をもまた結びつけようとする。素材だけではなく、知的なものを、イデオロギー的なものだけではなく、審美的なものを、歴史に結びつけようとする。

『エッセ・クリティック』鈴村和成訳(『バルト/テキストの快楽』『現代思想の冒険者たち』21、講談社、1996年より)

【アタクシ的メモ】
構造主義は、人間の社会的、文化的現象の背後には目に見えない構造があるとした思想。歴史に、内容、形式、素材、知的なもの、イデオロギー的なもの、審美的なものを結びつけるとのこと。


ゴーゴリ【『一日一文 英知のことば』から学ぶ#052】


【2月21日】ゴーゴリ:1809.3.20~1852.2.21

いま熱情に燃えさかっている青年が、もし自分の老いさらばえた後の姿を見せつけられたなら、恐れ戦いてとびすさることだろう。柔軟な青年時代を過ぎ、きびしく非情な壮年に達しても、心して人間的な行いを保持してゆくように努め給え。途中で取り落してはいけない。後で取り戻すことは決してできないから! 未来に横たわる老齢はつれなく怖ろしいもので、何一つもとへ戻してくれはしないのだ!

『死せる魂』(上)平井肇・横田瑞穂訳、岩波文庫、1977年

【アタクシ的メモ】
人は青年時代が絶頂で、年老いることは下り坂だと言いたいのだろうか。「途中で取り落してはいけない」は、何をが明示されておらず、警句としては不十分ではないか。何をが「人間的な行い」だとすると、「取り落とす」や「取り戻すことはできない」と合わないように思う。


ホルクハイマー【『一日一文 英知のことば』から学ぶ#051】


【2月20日】ホルクハイマー:1895.2.14~1973.7.7

理性の危機は個人の危機のなかで表明される。個人の能力として理性は発展してきたのだからである。伝統的哲学が個人と理性について抱いていた幻想――その永遠性についての幻想は消え失せつつある。個人は、かつては、理性をもっぱら自己の道具として考えていた。今日、個人は、この自己物神化の正反対のものを体験しつつある。機械が運転手を振り落とし、虚空を盲滅法に突進している。完成の瞬間に、理性は非合理で無能力なものになった。

『理性の腐蝕』山口祐弘訳、せりか書房、1987年

【アタクシ的メモ】
人間が持つ理性が、機械や技術によって、損なわれ始めたということか。「個人の能力として理性は発展してきた」という指摘は、面白い。


ヘディン【『一日一文 英知のことば』から学ぶ#050】


【2月19日】ヘディン:1865.2.19~1952.11.26

クム・ダリヤ下流およびデルタの周辺では、水も植物も動物も、すべてが新しい。まさにだからこそ、今度私たちが計画した旅は、とらえて離さぬ大きい魅力があるのである。私たちは、アジアの一番奥の心臓部の、一見気まぐれではあるが広範な地表の変化をこの目で確かめるには、絶好の機会にやってきたのである。

『さまよえる湖』(上)、福田宏年訳、岩波文庫、1990年

【アタクシ的メモ】
ネット上にもほとんど情報らしい情報はないが、「クム・ダリヤ」とは新疆ウイグル自治区にかつて流れていた河のようだ。ヘディンは、その地域に調査に行ったみたいである。


セネカ【『一日一文 英知のことば』から学ぶ#049】


【2月18日】セネカ:前4頃~後65

われわれの享ける生が短いのではなく、われわれ自身が生を短くするのであり、われわれは生に欠乏しているのではなく、生を蕩尽するそれが真相なのだ。莫大な王家の財といえども、悪しき主人の手に渡れば、たちまち雲散霧消してしまい、どれほど約しい財といえども、善き管財人の手に託されれば、使い方次第で増えるように、われわれの生も、それを整然と斉える者には大きく広がるものなのである。(『生の短さについて』)

『生の短さについて 他二篇』大西英文訳、岩波文庫、2010年

【アタクシ的メモ】
われわれの生が短いのは、自身に原因があり、整然とととのえると広がるとのことだが、何が蕩尽であり、どうととのえたらよいのだろうか。


梶井基次郎【『一日一文 英知のことば』から学ぶ#048】


【2月17日】梶井基次郎:1901.2.17~1932.3.24

私は好んで闇のなかへ出かけた。渓ぎわの大きな椎の木の下に立って遠い街道の孤独な電灯を眺めた。深い闇のなかから遠い小さな光を眺めるほど感傷的なものはないだろう。私はその光がはるばるやって来て、闇のなかの私の着物をほのかに染めているのを知った。またあるところでは渓の闇へ向かって一心に石を投げた。闇のなかには一本の柚子の木があったのである。石が葉を分けて戞々と崖へ当った。ひとしきりすると闇のなかからは芳烈な柚子の匂いが立騰って来た。(「闇の絵巻」)

『檸檬・冬の日 他九篇』岩波文庫、1985年

【アタクシ的メモ】
闇とほのかな光。そして、闇に石を投げ込むことで、立ち上る匂い。そこに劇的なドラマはないが、ささやかな人間の認識がある。


西行【『一日一文 英知のことば』から学ぶ#047】


【2月16日】西行:1118~1190.2.16

心なき身にもあわれは知られけり鴫立つ沢の秋の夕暮

年たけて又越ゆべしと思きや命成けり佐夜の中山

風になびく富士のけぶりの空に消て行方も知らぬ我思哉

願はくは花の下にて春死なんそのきさらぎの望月の頃

『西行全歌集』久保田淳・吉野朋美校注、岩波文庫、2013年

【アタクシ的メモ】
古語は苦手なので、読み解くのが難しい。そんな中でも、富士山の噴煙が消えゆくさまと、自分自身の思いの曖昧さを重ねている「風になびく富士のけぶりの空に消て行方も知らぬ我思哉」が、一番好みかもしれない。


二葉亭四迷【『一日一文 英知のことば』から学ぶ#046】


【2月15日】二葉亭四迷:1864.2.28~1909.5.10

誠に人生は夢の如しといふうちにも、小生の一生の如きは夢よりも果敢なくあはれなるものなるべし。……かくして空想に入りて一生を流浪の間に空過し、死して自らも益せず人をも益せず、唯妻子を路頭に迷はすのみにてはあまりに情けなく候へど、これも持たが病已むを得ず候。(明治36年2月15日付、奥野小太郎宛書簡)

『二葉亭四迷全集』第七巻、岩波書店、1965年

【アタクシ的メモ】
二葉亭四迷という筆名の由来は、自分自身を「くたばって仕舞え」と罵ったことによるそうだ。上記の引用も、自身に対する後ろ向きな気持ちを、手紙に綴ったといったところなのだろうか。


中井正一【『一日一文 英知のことば』から学ぶ#045】


【2月14日】中井正一:1900.2.14~1952.5.18

一体人間は、二つの魂の誕生をもっているといえよう。世界がこんなに美しく、世の中がこんなに面白いものかと驚嘆する時がある。これが第一の誕生である。そしていつか、それとまったく反対に、人間がこんなに愚劣であったのか、また自分も、こんなに下らないものだったのかと驚嘆し、驚きはてる時がくる。これが第二の、魂の誕生なのである。しかし、この時、人々は、ほんとうの人生を知ったというべきであろう。(「美学入門」)

『中井正一評論集』長田弘編、岩波文庫、1995年

【アタクシ的メモ】
中井正一は、美学者、評論家、社会運動家だったとのこと。国立国会図書館の初代副館長でもあった。上の記述は、美醜による二元論的な人間理解だったということであろう。


内村鑑三【『一日一文 英知のことば』から学ぶ#044】


【2月13日】内村鑑三:1861.2.13~1930.3.28

神を見ると夢幻にかれを見るということではない、また神秘的にかれを感ずるということでもない、神を見るとはイエスキリストを真の神として認むることである。かの最も不幸なる人、かの罪人として十字架に懸けられ、エリエリラマサバクタニの声を発しながら息絶えし人、かの人を神と認むるをえて、人生のすべての問題の解決はつくのである。神を見るとは実に神を見ることである、わが罪を担うてわれに代わりて屈辱の死を遂げ給いし人なるイエスキリストを神として認むることである。(「神を見ること」)

『内村鑑三所感集』鈴木俊郎編、岩波文庫、1973年

【アタクシ的メモ】
自分はキリスト教徒ではないせいか、トートロジーに感じる。「イエスキリストは神だから神なのだ」というような。「真の神」という表現も、真ではない神がいるようで、やや違和感がある。