【気になるマーケティング用語】SIPS


<意味>
消費行動プロセスモデルとして、古くは「AIDMA」、インターネット登場後には「AISAS」が挙げられてきた。「SIPS」は、昨今のソーシャルメディアの広がりに対応した新たな消費行動プロセスモデルだ。

ソーシャルメディアの急速な普及によって、消費者の消費行動プロセスは「Sympathize(共感する)」、「Identify(確認する)」、「Participate(参加する)」、「Share&Spread(共有・拡散する)」という順に変化するとした考え方である。

<解説>
先述の通り、2011年1月に電通の「サトナオ・オープン・ラボ」(当時)がSIPSを発表するまでは、AIDMAとAISASという2つのモデルによって、消費行動のプロセスが説明されていた。

AIDMAは、1920年代にアメリカのサミュエル・ローランド・ホールが提唱。広告宣伝によって消費者は注意喚起され、商品を理解し、購買に至るという心理の動きをモデル化したものだ。「Attention(注意)」、「Interest(興味)」、「Desire(欲求)」、「Memory(記憶連想)」、「Action(行動)」という5段階で構成される。

商品購入がゴールになるため、どれだけ多くの消費者を次のプロセスに進ませるかが重要なポイントになる。それだけに、大勢にアプローチできるマス広告が大きな効力を持つ。マスメディアを中心とした施策や工夫を図る上で、役立つ消費行動プロセスだ。

AISASは、インターネット時代の消費行動プロセスモデルとして電通が提唱したもの。最大の特徴は、ネットを利用した情報の収集、共有を重視する点である。「Attention(注意)」、「Interest(興味)」、「Search(検索)」、「Action(行動)」、「Share(共有)」という5つのプロセスがある。

商品に興味を持った消費者は、購入前の行動として、価格情報や口コミなど様々な情報を集めようと「Search(検索)」を行う。さらに、購入後の評価を、第三者へ発信して「Share(共有)」する。これが新たな「Attention(注意)」につながるため、プロセス自体がサイクルを描く循環的なモデルである。

SIPSは、従来のAIDMAやAISASをすべて塗り替える行動プロセスではなく、ソーシャルメディアの浸透を契機に、消費者における情報の取得経路や消費への動機づけが変容している点に注目した“もう1つのモデル”と言えよう。

ただし近頃は、「ある情報を最初に見たのはソーシャルメディア」という機会が増えているのも事実だ。消費の起点も従来の「Attention(注意)」から「Sympathize(共感する)」に移る傾向がある。

また、これまで購入を意味した「Action(行動)」は、「Participate(参加する)」に置き換わっている。これは、購買行動がなくなるというよりも、購入の意味が「企業活動へ参加する」といった意識に近づきつつあることを示したものだ。

こうした点を踏まえると、SIPSは単に消費に関するプロセスの変容を言い当てているだけではなく、消費のあり方そのものや、消費者の社会意識の変化も指摘したと考えられる。企業においても、これらの状況を十分理解した上で、マーケティングやコミュニケーション施策を実施することが欠かせなくなってきている。


【気になるマーケティング用語】ナーチャリング


<意味>
英語の「nurture」は、養育する、育成するといった意味。ナーチャリングは見込み顧客を、有望な見込み顧客へと育成するマーケティング手法である。見込み顧客を指す「Lead(リード)」という言葉も含めて、「リードナーチャリング」と呼ばれることも多い。

オンラインを中心に、見込み顧客に対して多様な情報を提供。自社の商品やサービスに関心を持ってもらい、購入、契約へとつなげるのが狙いだ。特にBtoB商材では、単価が高く、購入決定までに長期間を要するため、商談率や成約率を高めづらい実情がある。こうした問題を解消しようと、ナーチャリングに取り組む企業が増えている。

<解説>
企業や商材によって、条件、環境は様々であるため、決まった手順があるわけではない。自社サイトでの資料ダウンロードなどから、見込み顧客の個人情報を取得してリスト化。Webサイトやメールマガジンなどのコンテンツによって、ユーザーのマインドを醸成し、有望な見込み顧客へと転換を図る例が多いようだ。

より具体的には、各コンテンツやユーザーの行動にポイントを設定し、見込み顧客が実際にどのような情報にアクセスしたかなどを集計、スコアリングする。このスコアによって、購入意向やニーズの度合いを把握できる。たくさんの情報に触れて、多くのポイントを獲得しているユーザーは確度が高いと判定するのだ。その後、営業部門などが直接訪問したり、販売促進活動を行う。

この手法で重要になるのが、Webサイトなどで展開するコンテンツの内容や導線などの全体設計である。様々なユーザーの状態やニーズに合わせて、まずは複数のコンテンツを用意しなければならない。さらに、それらのコンテンツをどのような順番、タイミングで見てもらうのか、各コンテンツにどれくらいのポイントを付与するのか、全体構成を踏まえた“ストーリー作り”が不可欠となる。

<課題>
ただし、“ストーリー作り”と一口で言うものの、実態はオンライン化された営業活動を新たに設計し、構築することに等しい。デジタルマーケティングに詳しいのはもちろん、顧客心理を含むユーザー理解、現場でも有効な営業ノウハウなど、要求される知見は多岐にわたる。

そのため実践に当たっては、「ナーチャリングを企画、実施できる人材がいない」という大きな課題がある。取り組んだ当初は、失敗するのが当たり前くらいに考え、トライ&エラーを繰り返しながら徐々に精度を上げる方が、むしろ成功への近道であろう。すぐに多数の有望顧客を獲得しようと焦り、短期的な効果を追い求めるべきではない。


【気になるマーケティング用語】ブランド・エクイティ


<意味>
ブランドが持つ資産価値のことを指す。ブランドは単なる名前や記号ではなく、信頼感や知名度など、無形でありながらも価値を有している。これらを、企業の資産として評価しようという考え方だ。

『ブランド・エクイティ戦略』の著書であるデイヴィット・A・アーカー氏が提唱。同氏は、ブランド・エクイティの構成要素として5つを挙げている。

(1)ブランド・ロイヤリティ(ブランドへの忠誠心、気に入っている度合)、(2)ブランド認知(ブランド名の認知度)、(3)知覚品質(消費者が理解している品質)、(4)ブランド連想(ブランドに対する心理的・感情的な連想、イメージ)、(5)その他の資産(特許や商標や流通関係など)、である。

<解説>
ソーシャルメディアを利用する目的の1つとして、「ブランディング」を挙げる例は多く、企業はSNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)をブランドの資産価値を上げるツールと捉えている面もある。

だが実際には、そもそもブランド・エクイティが低い企業は、ソーシャルメディア上でもファンやフォロワーが付きにくく、反応もよくない。一方、高い企業はその逆だ。SNSを通じて、ブランド・エクイティやブランド・アイデンティティの現状が顕在化していると言えるだろう。

実際の企業活動においても、認知やロイヤリティが高いブランドであれば、販売促進活動に使われるマーケティング・コストは低く抑えられる。競合他社などと比較して、品質に対する信頼感が強ければ、市場において価格決定権を持ち、高く値付けできる。

高いブランド・エクイティには、具体的なメリットも多く、企業の競争優位性に直結している。しかも、消費者が持つ品質のイメージやブランド連想は、購入者の安心感や使用満足度の向上につながり、企業だけでなくユーザーに対しても価値を提供することになる。

<課題>
資産価値を定性的にではなく、定量的に評価するには、それぞれの構成要素を数値化する必要がある。各構成要素の数値化や複数の構成要素を1つにまとめることは難しいため、ブランド・エクイティの数値化は非常に困難なのが実情だ。

数値化の現実的な方法として、ブランド・ロイヤリティなどの構成要素を評価するアンケート調査などがある。しかし、アンケート調査を基に各要素を定量化しても、その数値を「金額」に換算できないため、資産価値として検証できないという課題がある。

ブランド・エクイティは数値化が必須というわけではない。資産として金銭や土地、建物を管理するように、「ブランドは資産である」という考え方を持って、それを高める努力が重要なのである。


【気になるマーケティング用語】CSV


<意味>
「Creating Shared Value」の略。環境問題や貧富の格差といった社会問題の解決と、企業自身の事業に関する利益や競争力の向上を両立させようとする経営コンセプト。「共通価値の創造」「共益の創造」などと訳される。

企業戦略論の第一人者として知られる、米ハーバード大学教授のマイケル・E・ポーター氏が、ハーバード・ビジネス・レビュー誌の2011年1月・2月合併号に共著で発表した論文『Creating Shared Value』で提唱した。同氏が2006年の論文で言及した「戦略的CSR」を、さらに発展させた考え方である。

<解説>
CSR(企業の社会的責任)との対比で語られることが大半であるが、CSRのように目的を社会貢献に絞るのではなく、CSVでは企業が行う事業にとっても価値を生み出す活動でなければならない。資本主義の内実を変化させながら、利益を生み出していく企業活動とも言える。

企業においては、社会全体の問題を解決しようと努力することで、事業継続に有効な面がある。顧客や取引先など、多くのステークホルダーから評価を受ける上、利益を出し続けることで長期的な事業に育て上げ、企業を支えることにつながるからだ。

そもそもCSRは、企業活動によって生じた社会に対するマイナスの影響を、軽減させることが狙いである。結果として、企業イメージや評判は向上するかもしれないが、必ずしも社会全体をよくするわけではない。そのため、CSRの発想を進展させ、社会貢献と利益の双方を追求する必要性が浮上していた。

厳しい財政状況や突然の大災害、政情不安などから、国家や政府の力が限定的になっている世界の現実もCSV推進の後押しになっている。そうした社会情勢からも、企業は社会問題の解決に向けて、ますます積極的に行動していくことが求められているのだ。

<展望>
特に東日本大震災では、企業が物資や義援金などを単に送るのではなく、長期間にわたる炊き出しや一手間かけた物資提供など、自らの事業に根ざし、成長を見込んだ被災地支援も行われた。これは、社会貢献という“コスト”に事業で稼いだ利益を回すといった考え方から、競争力を磨く投資の場として考えられるようになった現われの1つだろう。

また、CSVは本来企業に適用される概念ではあるが、個人の視点に置き換えた「パーソナルCSV」というコンセプトも、これから広がる可能性がある。具体的には、ニーズのある個人同士を結ぶ相互的なネット上のサービス。「お使い」のようなちょっとした用事を頼みたい人と請け負いたい人を結ぶといったものだ。

こうした動きやサービスは、ソーシャルメディアとも親近性が高く、相性がよいため、今後新たなSNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)として展開されることも考えられる。


【気になるマーケティング用語】キュレーション


<意味>
もともとの語源は、博物館や美術館の展示物を決定したり、展覧会の企画を立案する「キュレーター(curator:日本語訳では学芸員)」である。キュレーターの仕事から転じて、インターネット上などにあふれる膨大な情報を整理し、新たな意味づけなどを行い、多くの人と共有することをキュレーションと呼ぶようになった。

断片的な情報をある切り口で束ねたり、これまで有効活用していなかった情報を精査して、新たな意義を見出したりするため、キュレーションは「編集」と言い換えられるだろう。編集行為であることからも、人手で情報を収集、整理することが前提となっている。検索エンジンを使い、記事などを機械的に抽出して集約する場合は「アグリゲーション」と言い分けることもある。

<解説>
情報量が加速度的に増えているのはインターネットだけでなく、企業の社内データでも同様だ。最近では、企業内に保存されている大量の情報を再編集して、ビジネスにおいて新たな活用法を見いだす行為にも、この言葉が用いられるようになってきた。インターネット上の用語と区別し、「リアルキュレーション」という呼称が使われる場合もあるようだ。

具体的には、いわゆる“売れ筋”ではないロングテール商品にスポットライトを当てることで、認知度の低い商品の価値を改めて訴求するといったことや、従来は使ってこなかった既存のデータを再度整理、収集し直し、新たな営業や企画の提案に活用するといった例がある。

また、SNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)の分野では、気に入った画像をクリップして共有する「Pinterest」がキュレーション系と位置づけられる。このサービスは、他サイトへのトラフィック誘導率が高いSNSだという調査結果もあり、ソーシャルメディアにおけるマーケティング促進の起爆剤になるかもしれないとの期待も大きい。

<課題>
昨今、ビッグデータという観点からも、マーケティング活動での情報活用が盛んに叫ばれている。そこで一番のネックになっているのが、「大量の情報を誰が分析するのか」ということ。仮に、情報処理が専門であるITベンダーにデータ分析を依頼したとしても、どのような視点で、どうやって処理するかまで、すべてを任せられるわけではない。

データ分析を最適化するうえでは、ビッグデータを分析する人、キュレーションを行う人が、データ処理に強いのはもちろん、自社の業務やビジネスモデルを深く理解している人物であることが欠かせない。つまり、IT(情報処理)とビジネスのどちらにも長けた人材だ。特にリアルキュレーションを企業が実践するには、まず人材の発掘、育成が急務と言えるだろう。


『ゴムあたまポンたろう』長新太・作


「ソーシャル時代」とも言われる昨今、通勤電車に乗っていても、多くの人がスマートフォンでFacebookやTwitterを利用しています。若い人を中心に、ソーシャルメディアが、現代人の生活に欠かせぬものとなってきているようです。

では、そもそも「ソーシャル」とは、一体何を指しているでしょうか。この問いに対する答は、思いのほか難しいものに思えます。

ソーシャルの原語である「social」を日本語に訳せば「社会的な」となります。しかし、「社会」とは国や地域、はたまた時代によって、意味や様相が大きく変化します。日本とアフリカにおける社会のあり方は違っていますし、たとえ近隣国であっても同一ではありません。日本国内に限定したとしても、平安時代、江戸時代、平成のそれぞれが、同じ社会だとは言えないでしょう。

今回私が紹介するのは、『ゴムあたまポンたろう』という絵本です。主人公のゴムあたまポンたろうは、頭がゴムで出来ている男の子。その頭が大男の角、バラのとげ、オバケの頭、ハリネズミに、ぶつかり、刺さり、蹴られることで、理由も明かされぬままあちこち移動を繰り返します。

移動する中で、ゴムあたまポンたろうは様々な感情を抱きます。「わーい」と叫んだり、心配したり、驚いたり、怖くて震えたり、泣きたくなったり。頭がゴムであるばかりに、宿命的に移動を義務付けられているようで、各々の状況を受け入れて話は進行します。まさに「郷に入っては郷に従え」といった感じです。

あるページでは大男が横たわり、あるページではオバケの親子と出会い、あるページでは動物たちがズンズン歩き、あるページでは海の上を飛んでいます。それこそ社会常識では考えられない状況ではありますが、ゴムあたまポンたろうは、“そうである状況”を引き受け続けます。

この本はとても独特な色使いで、ページをめくるごとに不思議なシチュエーション、不条理な情景がビビットな色で描かれています。こうしたページ一つひとつを「社会」と見たてると、この社会とあの社会に共通性や連続性は見つかりせん。なぜそのような状況であるのか、正当性は棚上げされているようです。

「社会」とは歴史をさかのぼることで、あるいは地政学的に分析を試みることで、これこれの理由で、今こうであると説明がつくものなのかもしれません。それでも、ゴムあたまポンたろうの物語を読み、彼の姿を虚心に眺めていると、「社会」というものの根源的な無根拠さを感じずにはいられなくなります。

『ゴムあたまポンたろう』長新太・作/童心社


のじゅく【野宿】


オートバイでニ週間くらいの長い旅に出ると、寝泊りの大半は、決まって野宿になりました。特に学生の頃は、自分の自由になるお金は少なかったので、数泊のツーリングだったとしても、テントを張って宿泊費を浮かすことがほとんどでした。

宿泊代は無料だったり、キャンプ場みたいなところでも、無料に近いお金しか必要なかったりするので、懐のさびしい私には大変助かりました。この浮いたお金で、楽しい旅の日数を少しでも長くできるわけです。

特にバイクでの野宿だと、タンクの上や後部座席にラクダみたいに荷物を載せたとしても、着替えなどの必須なもの以外、大したものを持っていくことはできません。そうなると必然的に、テントでの寝泊りもシンプルなものになってしまいます。

当たり前ですが、テレビもなければ、冷蔵庫もなく、明るい蛍光灯もありません。あるのは、寝袋と自分の身一つなわけで、周りが暗くなってくれば、目を閉じて静かに眠るだけでした。そして、自然が目覚まし時計となり、日の出とともにまた走り出すのです。

正直に言ってしまえば、大変不便ですし、お世辞にも快適ではありません。宿泊する場所のそばにお風呂がなければ入浴もできませんし、コンビニエンスストアなども無くて、食べ物に困ることもありました。

でも、悪いことばかりではないのです。その1つに、今までの普通の生活がいかにありがたいものかを知ることができました。雨風をしのげ、布団の上で眠れることが、どれだけ恵まれているかを。日々暮らしていると、すべてが当たり前のように思え、むしろ不満を持っていたことが恥ずかしくなってくるほどです。

そしてもう1つは、野宿をしたからこそ、多くの人と接することができたのです。テントを張っていたりすると、見知らぬ人から「よくやるねえ」などと声をかけられ、短い時間ですが話が出来たりもするのです。

一度は、鹿児島県の串木野で野宿ポイントを探していた際、たまたま「この辺りに公園などないですか?」と聞いた地元の方に「公園は虫も多いから、家に来なよ」と言ってもらい、突然一泊させて頂いたこともありました。お風呂にも入れさせてもらい、ビールや九州ならではの焼酎も頂戴しました。朝食のときには、黒砂糖を勧められました。これもまた、九州の日常生活なのだろうなあと感激したものです。

その方とはひょんなことからの出会いでしたが、その後お礼をしたり何度かやり取りをし、十年くらい経つ今でも年賀状の交換をしています。それは、私にとって昔の旅のちょっとした勲章みたいになっています。

野を宿とするのは、先に述べたように不便や辛いことも数多くあります。でも、普段の生活では決して見つけることができなかったことを気づかせ、人との偶然な出会いを呼ぶ意外な効用ももたらしてくれたのでした。

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ねまわし【根回し】


「根回し」という言葉を聞いて、あまりよい印象を受けない方が多いかもしれません。何だか悪さを行おうとしているように感じる方もいるでしょう。どうもこのことばには、ちょっと汚いイメージがまとわりついているようです。

かくいう私も社会人になる前は、「根回しとは、悪い大人のする薄汚れた行為だ」と考えておりました。表で出来ない話を陰でこっそりし、時には金銭の授受などもともない、仕事をまっとうに行わないためのものだ、と子供心に妄想をたくましくしていたのです。自分は、「社会に出てもきっと根回しをするもんか」とも思っていました。

ところが、実際に社会へ出て働き始めてみると、いわゆる根回しがむしろ必要であることを知りました。幾分極端な表現かもしれませんが、社会で、よりよく、スムーズに仕事をしようとすれば、根回しは切っても切れないものだと思うのです。

もちろん、私が幼い頃に抱いていた誤解のような、ダークな根回しや、法に触れる根回しも世間を見渡せば、少なからず存在するのだとは思いますが、ほとんど多くの根回しは、より実務的で、もっと肯定的なものだと思います。

と言うのも、仕事では「報・連・相」が大変に大事だと言われます。仕事を日々行う上では、上司や同僚、関係者への報告、連絡、相談が必要だということです。そういった面から言うと、根回しとは事前の連絡や相談だと言えるではないでしょうか。

どんなえらい人だとしても、会社などで業務をしようとすると、周りの人や関係会社の人たちと協力しながら仕事をしなければなりません。その時、周囲の関係者に全く何の連絡や相談もなければ、うまく仕事は運びませんし、気持ちの面でも一緒にがんばろうという意欲が薄れてしまうでしょう。

逆に根回しをしっかりすれば、単なる事前連絡にとどまらず、関係各所から業務に対する知恵やノウハウを聞くことができるかもしれませんし、留意する事柄や注意する点をきちんと発見しやすくなるかもしれません。三人寄れば文殊の知恵とはよく言ったもので、他人の意見をあわせることで、より十全で質の高い業務遂行が可能になるのではないでしょうか。

全部の業務をたった一人で、かつ完璧に行えるようなスーパーマンであれば、根回しなどしなくてもよいのかもしれません。でも、そんな超人はこの世に存在しないと思いますから、やはり根回しをすることは必須のことだと思うのです。

あらためて辞書をひいてみますと、「実りをよくしたり移植に備えたりするために木のまわりを掘って、一部の根を切りとること」が、根回しの一義的な意味のようです。根回しとは、元々実りをよくするためにしたことだったのですね。どうやら、その本来の意味は、仕事を行う際にもぴったりと当てはまっているのではないでしょうか。


にじゅう【二重】


『二重スパイ』という映画を見ました。以前、テレビで放映していた『八月のクリスマス』を偶然見て、韓国映画と俳優のハン・ソッキュさんを好きになりました。そんなことがあり、封切られた『二重スパイ』を映画館に見に行くことにしたのです。

北朝鮮の諜報員であったハン・ソッキュ扮するイム・ビョンホは、韓国に亡命します。当初は、偽装亡命を疑われ激しい拷問などにあいますが、その後少しずつ信頼を獲得し、韓国国家安全企画部で働き始めるようになるのです。そして彼は、韓国の国家機密をすべてではありませんが、知ることができるまでになります。

この立場を利用し、彼は二重スパイとして北朝鮮のため、密かに諜報活動を行なうのです。しかし、ある事件をきっかけに、もう北朝鮮にも戻ることもできず、韓国にもいられなくなってしまいます…。

ひと言で言ってしまえば、とても哀しい映画だと思いました。時代や国に翻弄された人間が、そこには描かれていたからです。彼らは祖国を愛していたのでしょうが、その愛は彼らを幸福にしてくれません。映画館を出ると、外は真夏のように晴れ渡っていましたが、私はやり切れない気持ちを持ったままでした。

ただ、私がそれ以上に感じたのは、二重スパイの生活が周りの人をいつも欺いていることへの哀しみでした。彼らは本心を語りません。当たり前ですが、彼らは本当の目的を決して明かさないのです。彼らは、「祖国北朝鮮のため」という強い思いを開陳したり、他人と交わらせることは全くなく、包み隠して日々を暮らしているのです。

そうやって考えてみると、もしかすると私の隣にいる友人や同僚たちは、実際に感じていることを言っていないのかもしれません。本当の気持ちは話していないのかもしれないのです。いささかネガティブ過ぎる観点かもしれませんが、やはりその可能性はありえます。

この可能性をさらに極大化させてしまうと、親や兄弟といった家族だったとしても、本心や本音をきちんと理解することはできないのかもしれません。他者に対し、厳しく閉ざされた心を、外から完全に知ることはできないのでしょう。

映画の中にいた二重スパイたちのように、命を懸けた嘘や欺きもあるのでしょうが、人は平和な日常の生活であっても、小さな偽りを行なってしまうものです。それはやはり、哀しい人間の現実だと思うのです。

言わないこと、表現しないことは、他者に認識し、理解されることはありません。隠された意志は、隠れたままです。でも、だからこそ私は本当に考えていることを、できるだけきちんと伝えてゆきたいと思うのです。哀しい世界は、映画の話だけにしたいと思いませんか。


なづける【名付ける】


もし塩が「しお」でなく、「携帯電話」という名前であったとしたら、何だかやっかいになりそうな気がします。「あ、そこの塩とって」とお願いしても、塩を取ってくれる人はいないわけです。「携帯電話を取って」と言って初めて、塩を手にすることができ、目玉焼きに塩をかけることが出来るのです。

当たり前ですが、塩は私が生まれたときからずっと「しお」と呼ばれていたわけで、あのしょっぱい白い粉は、昔に「しお」と名付けられ、その名前のままで存在していました。「塩はどうして『しお』という名前なのだろう?」「なぜ他の名前ではないのだろう?」と考えることもないほど、身近で当然の名前です。

しかし、よくよく考えてみたら「しお」と名付けられず、別の名前だったとしても問題はないはずです。先述の「携帯電話」でも、「本」でも、あるいは「砂糖」でも、呼び名としては特に不都合はないように思います。

私は寡聞にして実際のところを知らないのですが、塩をどこかの会議で「しお」と名付けたわけではなさそうですし、誰かえらい人が決めたわけでもなさそうです。それなのに、塩は誰にとっても「しお」でしかないのです。あらためて考えると、これはとてもすごいことのように思えます。ことばや名前が大いなる普遍性を実現しているからです。

「しお」ということばが、すべての塩を指し示し、またほとんどすべての人にその意味が伝わります。もちろん、人によって文化によって、その理解する意味や思い浮かべるイメージに若干の相違があるとは思いますが、「塩をとって」と言えば、誰もが「しお」ということばを理解し、とってくれるのです。

また逆の面から言うと、「しお」という名前があるからこそ、人は「塩」というものを理解できるとも言えるでしょう。例えば、昔から魚をよく食べていた日本人が使う日本語には、「トロ」「中落ち」「赤身」などマグロの部位ごとに名前がありますが、英語にはその違いはなく、どこを食べても「ツナ」で、細かい違いは区別されていません。反対に、牛肉のそれぞれ部位の名前は、英語にしかありません。日本はそのことばを、概念ごと輸入しただけです。

ここでは、ものの存在が先か名前が先かという議論はいたしませんが、少なくともことばや名前があって初めて、ものや概念が指し示され、把握されるのは、どうやら紛れもない事実のようです。すなわち、名前があってこそ、我々はそれをひとつの存在として認識することができ、呼びかけたり、伝えたりできるのです。

塩が「しお」という名前である絶対的理由はなさそうです。名前は単に名前に過ぎないと言えるかもしれませんが、ものや事柄は名付けられることにより、その存在を我々の眼前に浮上させてくれているのです。名前がなければ、我々の生活もままならないかもしれません。いつまでも安心して目玉焼きが食べられるように、私としては名前の力が衰えぬことを祈るばかりです。