きまぐれ【気まぐれ】


あくまで私見ですが、「人間って気まぐれだなあ」と思っています。子どもや学生などの若いころは、当たり前のように気持ちが変わってゆき、周囲の人を困らせたり、迷惑をかけたりもします。それだけでなく、大人になり、会社などに勤める社会人となっても、終始一貫した考えをもって行動している人は、そうそう多くないだろうと感じています。

何年も前の約束や宣言だけでなく、数日前、ひどいときには数時間前とで、話や意見が変わってしまう人に会うことは、そう珍しいことでもありません。正直言って、お客様や会社の上司、同僚の気まぐれな話に、私が翻弄されたことも、一度や二度ではありません。もちろんその逆で、私の気まぐれな発言が元になり、周囲を振りますことも多々ありました。ですので、人間は気まぐれだというような考えを、自戒も含めて、私はこっそりと持ってしまっているのです。

もう1つ、「気まぐれ」というと思い出すことがあります。それは“ロボット”ということばです。なぜロボットかというと、中学生くらいのとき、星新一さんの『きまぐれロボット (角川文庫)』という文庫本を読んだ記憶が、私の頭に刷り込まれているからです。私にとっては、いわば個人的な枕詞のようになってしまっているのです。

この本との出会いは、まさに気まぐれが引き起こしたものでした。確か 13 歳か14 歳くらいのとき、兄の本立てにあった『きまぐれロボット』を何気なく手にし、かわいらしい表紙とページ数の少なさに、軽い気持ちで読んでみることにしたのです。パラパラとページをめくってみると、短い話がいくつも並んでおり、いくつか読んでつまらなかったらすぐに止めればいいや、と考えたからです。

しかし、内容を読み始めてみると、止めるどころか夢中になってしまいました。そのショートショートの連打には、ちょっと毒気のあるユーモアが、そこかしこにあったのです。幼い私は、何だか一足早く大人になったような、将来知る秘密を先に獲得できたような、そんな気持ちになり、星新一さんの作品を次々と読むようになりました。初めは兄が持っている文庫を借りていましたが、すぐに読破してしまい、書店に行って新しいものを買い込んでは、熱心に読むほどでした。

それまでの私は、それほど読書好きではありませんでしたが、これがきっかけで、本屋に行くことや本を読むこと自体も好きになり、星新一さんの著作に限らず、様々な本に積極的に接するようになりました。そういう意味では、たわいない気まぐれが、私の生活にいつしか変化をもたらしていたわけなのです。

このような昔のことを思い出すうち、私は久しぶりに『きまぐれロボット』を読んでみたくなって、三省堂本店の文庫コーナーに足を運びました。そこには、見た目もほとんど変わることなく『きまぐれロボット』(角川文庫/ISBN4-04-130303-6/本体340 円)が売られています。表紙も当時のままで、大変懐かしく感じられました。今回読み直してみても、人生はそううまくはいかないという、ユーモラスで幾分教訓めいた視点を、初めて読んだときと同じように見つけることができました。が、それだけでなく、新たに発見することも、いくつかあったのです。

その文体はとても平明かつ率直で、例えば子どもが読んでも、充分に理解できる文章だということに気づきました。だからこそ、中学生だった私でも、あの本に描かれていた未知の世界に、すんなりと入れたのでしょう。また、いきなり何の前置きもなく、夢のような薬を新発明するなど、大人になった私からすると、ちょっとご都合主義で強引な展開と言えなくもありません。

ただそれゆえ、これらの「お話」の世界が一気に構築されているわけですから、その様は心地よさすら感じました。中学生の私と今の私とで、「やはり随分と感じることは違っているんだな」と感じました。そして、やはりこの本は、今読んでもおもしろく、「子どもや大人を問わず、色々な人に読んでもらいたいな」とも思いました。

ふと本の奥付を見ると、この本の初版発行は昭和 47 年で、私が購入した文庫は、平成 14 年7 月 15 日に107 版として発行されたもののようです。約 30 年の間に、100 回以上も増刷され、多くの人がこの本を手に取ったのでしょう。最初に言った通り、人間は気まぐれだなものだと私は思っていますが、その気まぐれな人間も、良い本をずっと読み継いできたのだということに、改めて気づかされたのでした。