せっきょう【説教】


誰でもお説教されるのは、嫌だと思います。まれに説教すること自体が好きで、訳もなく吹っ掛ける人もいるでしょうが、するのもされるのも、好んでする人はあまりいないでしょう。

私は子どもの頃から、よく説教されていました。大人になったら「もうされないかな」と高をくくっていましたが、社会人になってもやっぱり、説教をされる機会はそんなに減りませんでした。ただ会社に入ってしばらくすると、後輩や部下もできるので、立場上自分が説教するようにもなりました。

されていただけのときは、「説教をもらわないようにしないと」とか、「始まってしまった説教が早く終わらないか」などと、単純に説教から逃れよう、受けないようにしようとばかり考えていました。しかし、自分もときに説教をする立場になると、そうとばかり思えなくなったのです。

人によって、場面によって、色々な説教があるとは思うのですが、説教する人が「しなければ」と考えたのには、それなりの理由や事情があるのではないでしょうか。

例えば、職場での説教であれば、このまま放置しておいたら、お客様や取引先に迷惑がかかり、被害が出るとか、信頼を失ってしまうとか、趣味や遊びでするわけではないので、それ相応の必要や理由があるのだと思います。

違った言い方をすれば、その説教自体は目的ではありません。伝えるべきことが受け手にきちんと理解されたり、身につけてもらったりしないことには、全く意味がないわけです。

先日、何気なく入った書店で、何となく手にとった本に、「上司に怒られているときは、メモを取ろう」と書いてありました。ウンウンとうなずいているだけでは、積極性に欠ける態度に見える。だから、特にメモする事項がなくてもやる気を見せるためにもメモしよう、という理屈です。

ここまで、戦略的な応対でなくてもよいとは思いますが、それでもやはり説教なり、お叱りを受けるとき、「はい」と謙虚に答えるだけでなく、その意図を了解していることを示した方がよいと思います。

聞いた話の内容をまとめてみたり、その指摘を受けて今後どうするかを発言したり、説教している人にきちんと表現することで、言っている方も、「きちんと伝わったのだな」と安心できるわけです。

繰り返しになりますが、説教をする側には目的もありますし、きちんと伝えたいことがあります。それをわかったかどうか、了解したかどうかを示すのは、説教される方の役目だ、と私は思うのです。説教の仕方だけでなく、いわば「説教のされ方」もあるのではないでしょうか。

確かに説教されているときは、気持ちのいいものではありません。反抗したくなるときも、きっと多いでしょう。でも、そういった一時の感情だけを優先して対応するのではなく、互いの意志確認と捉えて、説教されているときこそ、いつにも増してきちんと自分の理解したことを表現したいものです。

こうした、「よい説教のされ方」ができればきっと、押し付けとしての説教ではなく、コミュニケーションとしての説教が生まれてゆくのではないでしょうか。