くつ【靴】


元来革製品が好きなせいもあって、革靴を買うということは、私にとってなかなかの一大事業であります。いわゆる“いい靴”は、それなりの値段がしますので、簡単に買い換えられません。「オシャレは足元から」とよく言いますし、「良い革靴は一生ものだ」などとも聞きますので、余計に力が入ってしまいます。

初めて革靴を購入したのは、確か高校に入学した頃でした。黒いプレーントゥ(つま先に何の飾りのないもの)を親に買ってもらったのです。当時は、靴との付き合い方も知らず、雨の日でも気にせず、毎日毎日履きつづけていました。手入れと言ってもほとんどせず、気が向いたときに靴墨をちょっと塗る程度でした。

そんな扱いでしたので、 3 年生になる頃には、よく曲がる甲の脇の部分に穴が空いてしまいました。見た目にもみすぼらしく、実質的にも砂が入ってしまったりと、靴として機能しなくなってしまったので、気に入ってはいましたが、その靴は処分することにしました。処分してからは、学生服にはスニーカーを合わせる方が、何となく格好よく感じたりもして、革靴と縁遠くなったまま卒業式を迎えました。

この後、私の革靴の扱い方に、いくつか問題があったことを知りました。革靴はできるだけ間隔をあけて履くこと。 3 ~4 足でローテーションを組んで履くのが望ましい。水にはできるだけ濡らさないようにすること。濡れた場合は、日陰などでゆっくりと確実に乾かすこと。油分が抜けていたら、クリームなどで補給してやること。靴墨を塗りすぎると革が呼吸できなくなるため、頻繁に塗らず、塗るときも薄く塗ること。そして、一度履いたらシューキーパー(シュートゥリー)などで靴自体を伸ばしてやること。このように、革靴は1つの生き物のような、デリケートなものだったのです。

20歳を向かえるに当たり、成人式用として革靴を買うことになりました。上のような知識を踏まえ、一生付き合える靴を、今度こそは買いたいと思い、私は真剣に靴を選びました。いくらきちんとしたメンテナンスで長持ちさせたとしても、時間が経ったら履けなくなるデザインや、デザイン自体を自分で気に入らなくなったりしては、元も子もありません。

さらに形だけでなく、材質や製法も慎重に検討して、オーソドックスな黒いカーフのプレーントウを、金額的にはちょっと無理をして購入しました。また、安い靴なら買えそうな値段だったので、大変迷いましたが、木製のシューキーパーも合わせて買いました。

大学生の頃は、革靴を頻繁に履く機会はなかったので、手入れも月に1、2度だけでしたが、会社に入り毎日履くようになってからは、何足か買い足して順繰りに履くようにしました。シューキーパーもそれぞれに用意して、履かないときはシューキーパーを入れ、革を伸ばしておきます。きちんと磨くようにもしていますし、油の補給にクリームも塗ってやります。

ですから、20歳に買った靴を筆頭に、どの革靴もずっと現役で履きつづけております。当然、靴底やかかとはすり減れば交換をしていますし、つま先を中心に結構な数の傷もあります。一足は、かかとの内側がすり減って革を張り替えもしました。それでも、アッパーの革はこちらの手入れを反映して、ピカピカと光っていますし、何より足を入れるとすっとフィットし、私の足を優しく受け入れてくれます。例えて言えば、幼馴染の親友と会話しているような、気楽な気持ちよさがあります。

最も長いものは 10 年以上履いてきたのですが、目ざとい方に「とてもきれいな靴だね」と言って頂けることも、いまだに少なくありません。そんな靴を眺めていると、私の気持ちや努力に応えてくれたように思え、感謝や愛着の気持ちが沸き起こってきます。

革靴は、もちろん1つのモノだとは思います。しかしながら、相手のことを理解し、相手のために働きかることで、より強く、より良い関係ができるように思えます。何よりこれらの靴たちは、私にとって長らく苦労をともにしてきた、かけがえのない友人みたいな存在なのです。


きまぐれ【気まぐれ】


あくまで私見ですが、「人間って気まぐれだなあ」と思っています。子どもや学生などの若いころは、当たり前のように気持ちが変わってゆき、周囲の人を困らせたり、迷惑をかけたりもします。それだけでなく、大人になり、会社などに勤める社会人となっても、終始一貫した考えをもって行動している人は、そうそう多くないだろうと感じています。

何年も前の約束や宣言だけでなく、数日前、ひどいときには数時間前とで、話や意見が変わってしまう人に会うことは、そう珍しいことでもありません。正直言って、お客様や会社の上司、同僚の気まぐれな話に、私が翻弄されたことも、一度や二度ではありません。もちろんその逆で、私の気まぐれな発言が元になり、周囲を振りますことも多々ありました。ですので、人間は気まぐれだというような考えを、自戒も含めて、私はこっそりと持ってしまっているのです。

もう1つ、「気まぐれ」というと思い出すことがあります。それは“ロボット”ということばです。なぜロボットかというと、中学生くらいのとき、星新一さんの『きまぐれロボット (角川文庫)』という文庫本を読んだ記憶が、私の頭に刷り込まれているからです。私にとっては、いわば個人的な枕詞のようになってしまっているのです。

この本との出会いは、まさに気まぐれが引き起こしたものでした。確か 13 歳か14 歳くらいのとき、兄の本立てにあった『きまぐれロボット』を何気なく手にし、かわいらしい表紙とページ数の少なさに、軽い気持ちで読んでみることにしたのです。パラパラとページをめくってみると、短い話がいくつも並んでおり、いくつか読んでつまらなかったらすぐに止めればいいや、と考えたからです。

しかし、内容を読み始めてみると、止めるどころか夢中になってしまいました。そのショートショートの連打には、ちょっと毒気のあるユーモアが、そこかしこにあったのです。幼い私は、何だか一足早く大人になったような、将来知る秘密を先に獲得できたような、そんな気持ちになり、星新一さんの作品を次々と読むようになりました。初めは兄が持っている文庫を借りていましたが、すぐに読破してしまい、書店に行って新しいものを買い込んでは、熱心に読むほどでした。

それまでの私は、それほど読書好きではありませんでしたが、これがきっかけで、本屋に行くことや本を読むこと自体も好きになり、星新一さんの著作に限らず、様々な本に積極的に接するようになりました。そういう意味では、たわいない気まぐれが、私の生活にいつしか変化をもたらしていたわけなのです。

このような昔のことを思い出すうち、私は久しぶりに『きまぐれロボット』を読んでみたくなって、三省堂本店の文庫コーナーに足を運びました。そこには、見た目もほとんど変わることなく『きまぐれロボット』(角川文庫/ISBN4-04-130303-6/本体340 円)が売られています。表紙も当時のままで、大変懐かしく感じられました。今回読み直してみても、人生はそううまくはいかないという、ユーモラスで幾分教訓めいた視点を、初めて読んだときと同じように見つけることができました。が、それだけでなく、新たに発見することも、いくつかあったのです。

その文体はとても平明かつ率直で、例えば子どもが読んでも、充分に理解できる文章だということに気づきました。だからこそ、中学生だった私でも、あの本に描かれていた未知の世界に、すんなりと入れたのでしょう。また、いきなり何の前置きもなく、夢のような薬を新発明するなど、大人になった私からすると、ちょっとご都合主義で強引な展開と言えなくもありません。

ただそれゆえ、これらの「お話」の世界が一気に構築されているわけですから、その様は心地よさすら感じました。中学生の私と今の私とで、「やはり随分と感じることは違っているんだな」と感じました。そして、やはりこの本は、今読んでもおもしろく、「子どもや大人を問わず、色々な人に読んでもらいたいな」とも思いました。

ふと本の奥付を見ると、この本の初版発行は昭和 47 年で、私が購入した文庫は、平成 14 年7 月 15 日に107 版として発行されたもののようです。約 30 年の間に、100 回以上も増刷され、多くの人がこの本を手に取ったのでしょう。最初に言った通り、人間は気まぐれだなものだと私は思っていますが、その気まぐれな人間も、良い本をずっと読み継いできたのだということに、改めて気づかされたのでした。


かわ【川・河】


高校生のとき、たまたま手にした雑誌の広告で、オートバイが何だかやけにかっこよく見えて、大学生になった私はバイクに乗り始めました。バイクに乗り始めると、色々なところに遠出するようになり、確か金沢にも2度ほど行ったと記憶しています。

1回目は、日本三名園の1つ兼六園を見て、その後能登半島をぐるりと回りました。そのとき、印象に残っているのは、古都の風情のある、細いくねくねした道でした。バイクなので、道が細くても気持ちよく走れたのです。2回目は、九州から新潟へ日本海側を走ったときだったので、通り過ぎただけでした。

ある友人に兼六園を見に金沢を訪れたと言うと、「犀川はどうだった?」と聞かれました。彼女は、室生犀星が愛した犀川もきっと見たのだろうと思って、その質問をしたようです。しかしながら私は、室生犀星も犀川も名前は知っていたものの、詳しいことは知らず、またその関係についても無知の状態でした。ですので、もしかしたら通りかかったのかもしれませんが、きちんと見ることなく帰って来てしまっていたのです。

こうして彼女から、犀星はその川から名前を取るほど犀川を大事に思い、川のほとりをよく歩いたという話を教えてもらいました。なので、2度目に金沢市内を走ったときは、オートバイに乗ったままでしたが、犀川をじっと眺めました。橋の上から見えるその川は、静かに街の中を流れていました。そして、流れにそった河原を犀星が歩いた過去を、私はそっと想像してみました。

ちょうどその頃、両親が熊本に住んでいたので、帰省の際には私も何度か熊本市内を歩きました。熊本には、阿蘇から流れている白川がありました。市内の川は、もうすぐ海へと流れ出るので、ゆうゆうと街の中を流れています。なぜだかわかりませんが私には、白川が街を支えているように見えました。

阿蘇にある白川の水源を見に行ったこともあります。そこには無色に透き通った小さな池くらいの泉があるだけでした。この山奥の小さな水源から何十キロも離れた海まで脈々と注ぎ、その流れが街を包み込むように思えるほど、悠然としたものになってしまうことに、私は不思議な感覚を覚えました。

また、私の学生生活は東北の仙台でした。市内には、「青葉城恋唄」の中でも歌われる広瀬川がありました。この川は、とても曲がりくねって流れています。広瀬川の上を橋で越えても、しばらくするとまた広瀬川に出くわすといった感じで、ちょっとどこかに行くだけで、十回近く広瀬川を渡ることも珍しくないほどでした。それだけでなく、場所によっては、水量も少なくさらさらと流れ河原があるようなところや、切り立った崖のようなところを深い水がぐうっと流れるようなところなど、千差万別な顔を見せながら仙台を走っています。

もちろん私は、大学に通うとき、必ず川を越えて行きましたので、毎日のように眺めていました。若かった私は、悩み事があったりすると、近くの河原まで歩いて行き川面をずっと見つめたり、河川敷の散歩道を川に添うように歩いたりもしました。秋になると、芋煮という習慣が仙台や山形にはあったので、仲がよい者や研究室で広瀬川の河原に集まり、煮た芋を食べながら一日中酒を飲んだりもしました。ですから、仙台で暮らす私にとっては、とても身近な川になっていたのです。

きっと川は、ただ流れているだけなのでしょう。山の中で湧き出した水が、高いところから低いところへと下っていくだけなのだと思います。そこには、「ただそうである」といった穏やかな摂理が感じられます。しかしながら、その自然のなすがままな態度に人間が触れると、文学や歌が生まれ、街を育み、そして守り、人の生活の支えや伴侶となったりするように感じます。

世界四大文明は川の流域で生まれました。肥沃な土地を運んだり、交通の便になったりと、その発生には合理的な理由もあるのでしょう。ですが私には、人に何かしらのパワーを与える魔術を、川が持っているように思えてならないのです。


おそれいる【恐れ入る】


私は社会人になってすぐ、営業部に配属されました。まず、そこで覚えさせられた仕事は、お客様から頂いた注文の書籍を、メーカーである各出版社に電話で発注することでした。今でこそ、発注システムがありますので、注文品については仕入れ担当が基本的に一括管理していますが、当時はそんなシステムもなく、営業マンは朝から晩まで電話口で注文を繰り返すことも日常茶飯事でした。

出版・書店の業界には、「取次ぎ」と言う書籍専門の中卸があり、書店が本の注文をする場合、その取次ぎにまとめてするのが、実は最も一般的な方法です。と言うのも、お客様の注文品が、限られた出版社であることは非常に稀で、 50 冊の注文があれば、出版社は 50 社にわたることは当たり前のことです。

だからと言って、その 50 社にそれぞれ注文をしていると、 50 回電話やファクシミリをしなければならず、大変手間がかかります。ですから、それらを取り仕切ってくれる、取次ぎにまとめて注文を出し、店まで配送してもらうのが、通常の発注の流れなのです。

しかしながら、私たちは取次ぎにまとめて注文を出さず、それぞれの出版社へ直接電話で注文していました。これは、お客様へ少しでも早く納品できるようにという、われわれの小さな努力の積み重ねだったのです。

もし取次ぎにお客様の注文全部をまとめてお願いしてしまうと、営業担当は一回注文を出せば済みますが、取次ぎから出版社へ注文が行くまでに、それ相応の時間がかかってしまいます。人に任せると楽ですが、そのために時間が掛かるわけです。取次ぎから各出版社へ注文する時間を短縮するために、われわれ営業マンは、電話と格闘していたのでした。

こうして、社会人一年生の私は、朝一番からお客様の注文に従って、それらの書籍を発行している出版社に電話をすることになりました。今ならば仕事の電話で緊張することはそうありませんが、当時の私はまず電話をすることがちょっとした苦痛のタネでした。

それに加えて、業務にも慣れておらず、たどたどしく頼りない注文の電話をしていたと思います。録音していたわけではないので、今では確認できませんが、想像に難しくありません。注文を受けてくれる出版社の方々は、ほとんどベテランの方ばかりでしたので、不慣れな新人の電話のために、きっとさまざま迷惑を被っていたことでしょう。

そのためか、電話口でつっけんどんな対応をされてしまったり、互いに喧嘩腰なやり取りになってしまうことも少なくありませんでした。先にも述べた通り、私は元から電話が苦手だったせいもあり、日に日に注文の電話をすることが嫌になっていきました。それでも、お客様から注文を頂いたら、電話をしなければなりませんので、責任を果たさねばと感じながら、何とかこの辛さから逃れられないものかと、毎日思い悩むようになっていました。

そんなある日、会社の先輩のかける電話を聞いていて、ちょっとだけではありますが、自分とは違うことに気づきました。その先輩は大らかな性格で、社内社外問わず、誰とでもフランクに接している人だったのですが、その人がかける電話は、必ず「恐れ入ります。○○社の~」で始まっていたのです。私の頭に「恐れ入ります」ということばが、ひっかかりました。

それまでの私は、いざこざが起きないようにと考えるあまり、何とか電話口で負けまい負けまいと、無意識の内に相手の上に立とうとばかりしていたのです。もちろん、そう言った気持ちを直接表現しているわけではないのですが、こんな気持ちをもった人の電話では、出てくれた人もいい感じがしません。それが災いして、逆に、いつもいつもちぐはぐなコミュニケーションになってしまっていたのでしょう。

私は、先輩の「恐れ入ります」に気づいてから、最初は口真似だとしてもいいやと思い、電話をする時はいつも言うように心がけました。初めはうまく言えなかったり、気持ちがこもっていなかったりしましたが、不思議なもので口が慣れ、はっきり言えるようになると、ああ電話に出てくれてありがとうと言う気持ちまで、私の中に自然と感じるようになってきました。

そして、それに伴って、今までギクシャクしてきた電話注文でのやり取りも、和やかに出来るようになったのです。たった一言ではありますが、私にとって、それは奇跡を起こすマジックのようなことばだったのです。

今も私は、電話をする時、それはどんな方に電話する時でも、「恐れ入ります」と一言謝意を述べてから自分の名前を名乗ります。それは、過去の自分の失敗を繰り返さないためであり、そしてこれから生まれ行く一期一会の出会いに対する敬意のことばでもあるのです。


えもんかけ【衣紋掛け】


先日たわいもない話をしているときに、ハンガーを指して「衣紋掛け」と言ったところ、相手から「エモンカケって何?」と聞かれました。幼い頃母親がよく使っていたので、私にとっては結構馴染み深いことばでしたが、確かにちょっと古臭いことばだとは思います。今だと、ハンガーと言わなければ、通じないのかもしれません。

年代のせいかとも思い、周りの人にこのことばを知っているか聞いてみることにしました。やはり私より一世代くらい若い人だと、知らなかったり、聞いたことがあるという程度でした。同年代や年上の方だと、知っている人がほとんどでしたが、「最近は使わないねえ」と言う人も多く、あまり馴染みのないことばになっているようです。

私は衣紋掛けとハンガーは全くの同義と思っておりましたが、「ああ、和服を掛けるやつね」と私の質問に答えた人がいました。それで、後から国語辞典をひいてみると、「和服を掛けておくための道具」とありました。私が理解していた意味も、実は正確なものではなかったようです。

また、もう1つの意味として「衣桁(いこう)」と書かれてありました。このことばは、明治の頃の小説でみたことあるかなあ、と言う程度です。たまたま私が調べた辞書には絵が載っていたので、ああこれかとわかりましたが、ことばの説明だけでは、つい立の骨組みのような家具をうまくイメージできなかったでしょう。使っていた私自身にとっても、実は、衣紋掛けが結構縁遠いことばになっていたわけです。

日本人が和服に接する機会も減ってもいるので、衣紋掛けと言うことばは、本来の意味が薄れたり使われなくなったりと、廃れていく一方なのかもしれません。ほとんど使われなくなった死語とは言えないまでも、死語に向かっていると言っても言い過ぎではないでしょう。パソコンで変換しても、一発変換は出来ませんでした。いつか、和服を掛ける場合であっても、ハンガーという表現が、衣紋掛けの意味を飲み込んでしまう日が来るのかもしれません。

ところで、和服を掛ける衣紋掛けは、基本的に細長い棒状の形をしていますが、徐々にその勢力を広げているハンガーは、いろいろな形のものがあります。クリーニング屋さんでもらうような、針金だけでできた細いもの。高級洋服店で見るような、木製のしっかりと厚みや重みのあるもの。同じハンガーと言っても、いろいろな種類や目的があるようです。

以前、高級な木製ハンガーの値段を調べたら、5千円以上したのでびっくりしました。財布買ったら入れるお金がなくなったではありませんが、そんなハンガー買えるお金があったら、ちょっとした上着が買えてしまうかもしれません。ややひがみ根性もあって、そんな高いハンガーなんて無駄じゃないのかと思っておりました。しかし、どうやら高級ハンガーが高級なのには合理的な理由もあるようです。

例えばスーツなどは、その肩の部分が一番大切なパーツで、値段の高いハンガーは、その大事な部分をきちんと保護する形と材質なのだそうです。ファッション業界では「スーツは肩で着る」と言い、このラインが最も重要なポイントとなるようです。

私がそれを実感したのは、映画『ローマの休日』のグレゴリー・ペックでした。彼の肩はバーンと張っており、正に高級ハンガーのような造詣で、現在から見るとオールドファッションと言えるスーツでしたが、スーツの肩からのラインが大変に美しく、私は憧れを感じたほどです。これを見て、スーツの肩を型崩れさせてはいけないということが、深く納得できたのです。

同じような生地を使ったスーツでも、売値が結構違うことがありますが、あれも厚いハンガーで運搬するか、しないかによっても影響されるそうです。つまり、商品の最も大事な部分を大切にして運ぼうとすると、容積をとってしまい、一度に運べる量が減り、それが価格を変化させるのです。高級スーツとは高級生地を使用しているからだけではなく、空間をより多く占有しているためでもあるわけで、われわれ消費者は、そのハンガーが確保した空間のためにも、コストを払っていることになるのでしょう。

グレゴリー・ペックのスーツ姿に感激し、スーツの肩は守るべきだと理解した私ですが、それでもやっぱり何千円もするような木製の高級ハンガーを買うことはできません。自分が持っている少ないスーツの数でも、もし買おうとしたら、何万円もの出費になってしまいます。仕方なく、ほうぼうで分厚いハンガーを探してみました。木ではなく、プラスチック製ではありましたが、「無印良品」で数百円で買える、それなりに納得できるハンガーが見つかりました。回し者などではありませんが、これは結構オススメできます。ただし、憧れの和製グレゴリー・ペックには、なかなかなれないでしょうね。


うたがう【疑う】


二時間もののサスペンスドラマなどを見ていると、「刑事は疑うのが仕事なんですよ」といくらか自嘲気味に吐き捨てるセリフを聞くことがあります。本物の刑事さんが、そんなことを言うのかどうかは知りませんが、視聴者である私たちは、こうした皮肉なセリフが出てくる彼らの気持ちを、自然と受け入れてしまっているのではないでしょうか。それだけ「疑う」という行為を、多くの人が悪いことだと思っているのでしょうし、絶えず疑念を持っている人は罪悪感すら芽生えてくるかもしれません。

確かに「あいつは嘘をついているかもしれない」と考えたり、「こいつは自分を騙そうとしているのでは」などと勘ぐったりしているのは、大変不健康な精神状態に思えます。私の実体験で言っても、人の行動や言葉を疑っているときは、とても気持ちが疲れてしまうものです。素直に信じ、疑うことなく暮らせたらよいのになあと、誰しも 一度くらいは夢見たことがあるのではないでしょうか。

しかしながら、その「疑う」ことこそが本分であり、元来からの特性としているものがあります。それは、万学の女王とも言われる「哲学」です。哲学と言うと、訳のわからない話を延々ととなえるという印象を持つ方もいるでしょう。あるいは、ひどく当たり前の事象を意味もなく弄んでいるだけだと思う方、押し付けがましい面倒なお説教や単なる言葉遊びだと感じる方が多いかもしれません。

こうした理解は全くの間違いとは言えないものの、哲学とは本来、あらゆることを「疑う」ことで成立している学問です。例えば、「人間が『存在する』とは、一体どういうことだろう」というような、誰しも自分の存在は当たり前に考えがちですが、それこそを問おうとします。そして、この哲学の本質たる「疑う」ことは、前述のような悪印象ではない、別の働きももたらしてくれるように思うのです。

デカルトの「我思う、故に我あり( Cogito ergo sum )」という有名な言葉は、あらゆることを疑いつくした上で、疑っている主体たる“私”だけは疑うことができない、と自我の存在を根拠付けるものでした。ここで哲学あるいは哲学的な行為がなしえた仕事は、疑うことによって個という新しい存在や価値が見出され、証明さられたことだと言えるでしょう。今まで自分にとって当然だと思っていたことでも、再び「疑う」ことで、よりその存在が明確になったり、より強固になったりするわけです。

最近、ノーベル賞を受賞された田中耕一さんが、「常識を疑い、それを簡単に手放さないことが大切」といった主旨の発言を、どこかでされていたと思います。正に田中さんは、常識を疑うことから生まれた芽を、世界においても評価されるような大きな成果につなげたのでしょう。彼は、周囲の人から変人扱いされたとしても、たゆまぬ研究によって疑問に思ったことを検証しつづけていたと聞いています。

こうして考えてみると、学問や研究には「疑う」ことが大変に重要なことだと気づかされます。「疑う」ことが、新しい発見や新しい価値を創造してくれるのではないでしょうか。だからこそ、すべての科学や学問における優れた成果には、どんなに当たり前だと考えていたことでも「疑う」姿勢や態度が、必要なように思います。

犯人探しのような悲しい「疑う」もあるのでしょうが、田中さんの発見のような、我々に恩恵をもたらす「疑う」もあるはずです。今まで我々が単純に信じてきた「疑う」という言葉の持つネガティブな印象は、ちょっと早合点が過ぎてしまったのかもしれません。それこそ、いつでもどんなことでも「疑う」ことを忘れてはいけないのでしょう。


いちょう【銀杏・公孫樹】


営団地下鉄青山一丁目駅の出口を出ると、すぐに神宮外苑のいちょう並木があり、一面に黄色い世界が開けていました。

ちょうど去年の今頃だったと思うのですが、東京へ遊びに来た友人が熱心なスワローズファンで、どうしても実物の神宮球場を見てみたいからと、明治神宮まで連れ立って出かけたことがありました。その時に、このいちょう並木に出会ったのです。東京で働くようになって、 5 年以上経ってはいましたが、私はここを訪れるのは初めてのことでした。

その時が落ち葉の最盛期だったのか、黄色い葉があちらからこちらからとハラハラ落ち、そして落ちた葉も敷き詰められたように深く道を覆っていました。その景色は、黄色く彩られた幻想的な光景で、私は別世界に迷い込んだような気分にさせられました。とてもきれいだなあと言う素直な気持ちを、心の中で何度もかみ締めたことを覚えています。このようないちょうや、いちょう並木を今まで見たことがなかったので、私はすっかり感動してしまったのです。

この美しいいちょう並木を見るまで、私にとっていちょうはきれいなものと言うより、もうちょっと身近であたたかい気持ちを持たせる樹でした。と言うのも、私がかつて通っていた大学の構内には、並木というほどたくさんではなかったのですが、いちょうの樹が何本も生えていました。季節のめぐりとともに、葉を茂らせ、落とし、実をつけていました。あの独特な匂いとともに、学生時代の日常に、当たり前なものとして存在していたのです。

私が通っていた大学は、もちろん塀に囲まれていましたが、形ばかりのものと言っても言い過ぎではなく、学生以外の方の往来が多くありました。生協の定食は市価より安いので、タクシーの運転手の方がよく食べに来ていました。そのような開放的な雰囲気だったので、いちょうがぎんなんを実らせ、地面に落ち始めると、近くの団地のお母さんたちが拾いに来ていました。中には、小さなお子さんを連れて、構内のぎんなんを拾っている方もいました。

ぎんなんの匂いは好きになれませんでしたが、小さな子供が、無心にぎんなんを拾っている姿はやはり微笑ましいもので、あの小さくちょっと匂う実が、私の通う大学を幼い彼らにとって、より身近にしてくれているように思え、うれしく眺めていました。そして、その晩の食卓の茶碗蒸に入るかな、などと一人想像したものです。

そう言う意味では、いちょうは私と他の人を身近に感じさせてくれる、ひとつの媒介になってくれていたのでしょう。いまだに街でふとあの匂いをかぐことがあると、匂い自体のきつさとは別に、不思議と優しい気持ちになってしまうのです。

いちょうは、何億年も前から、今と同じ姿のままで生息しつづけてきた植物だそうです。つまり、人類が誕生するもっともっと前から、今私たちが見るのと同じように、枝を伸ばし、葉を増やし、実を実らせていたわけです。そんなことを想うと、私が大学で接したずっと昔から、人間どうしだけでなく、何らかの生物どうしを結びつける役目を、静かに果たしてきたのかもしれない、などと言う幾分妄想めいた想像を、思わずしてしまうのでした。


あまい【甘い】


「『うまい』の語源は『甘い』がなまったものだ」と国語の時間で教わったとき、幼い私はびっくりしてしまったことを、今でも覚えています。なぜなら、甘い食べ物は、私の身近にあり、味覚の中の1つだとしか思っていなかったからでした。

私は甘いお菓子なども好きなくちなので、シュークリームなども大好きでした。ですから、甘いものをおいしいとは思いましたが、その他の味ももちろんおいしいと感じていましたので、「甘い」ものだけが「うまい」わけではないのではないか、と幼心に思ったわけです。

しかし、平安時代の頃、世の中に甘い食べ物はほとんど存在しないくらい貴重で、都に住んでいる貴族のような、ごく一部の高い身分の人だけが甘いものを口できました。つまり、甘いものを食べることは、大変に特別な体験だったから、「甘い」ものこそが「うまい」へと変化しえたようです。

ところが、現在においては、甘いものはとても当たり前になっています。例えば、会社のデスクの引出しには、チョコレートなどの甘いものが、少なからず入っていたりするでしょうし、家の冷蔵庫の中にも、プリンやケーキがあったりするかもしれません。コンビニに行けば、たくさんの甘いお菓子が並べられており、手軽に購入できますし、自宅の台所に砂糖がない家庭など、ちょっと考えられないほどでしょう。

かつては、特権階級のものだった「うまい」甘さを、今では誰もが享受できるようになったわけです。むしろ、それを通り越してひどく当たり前な、何も珍しくない存在となっているといっても、過言ではないでしょう。

今も飢餓や食料不足に苦しむ国や地域があることを考えると、上述のような日本の状況は、我々が住んでいる国が、非常に恵まれていることを証明してくれます。歴史を振り返ってみれば、戦後すぐのような、日本にとって苦しい時期もあったのでしょうが、高度経済成長後に育った私ぐらいの世代は、何もかもが豊富にある中で暮らしている、大変に恵まれた世代と言えるのでしょう。

そのためでしょうか、私がまだ学校に通っていた小さなころには、よく両親や教師の方々から「おまえたちは、まだまだ甘い。俺たちが、若いときには…」といったような話を、それこそ耳にたこができてしまうほど聞かされたのでした。

しかしながら、確かに我々以降の年代は、彼らが言うように精神的にも肉体的にも、甘いところが少なからずあるのを、全く認めないわけにはいきません。日本はずっと豊かで、電化製品、車、 IT 技術や社会インフラが、私たちの生活をより便利に、より暮らしやすくしてくれているからです。もう我々は、数百メートルだって歩かずにすませてしまいますし、洗濯も洗濯機がほとんど終わらせてくれます。

このように、他国と比べても豊かな国である日本ではありますが、ここ何年かは永遠に続きそうな不況に直面し、未来に対して不安な気持ちを持っています。そして、この不安な時代を、今後担っていかなければいけないのは、私たちのような「甘い」と言われて育ってきた世代なのです。

少しずつ積み重なり、ずっしりと重みをもった不安を、我々の世代がすべて吹き飛ばせるとは思いません。それでも、この「甘い」世代こそが、「うまい」世の中、あるいは「うまい」時代へと、ほんの少しでも、いくらかでも導けたらと考えています。


世界が終わるとき


世界の終わりがきたら
きみはどうする?

ぼくは、タマゴを割ってみるね
生タマゴかゆでタマゴかわからないから

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小さな変化


落ち続ける葉。大きな樹から、絶えることなく落ちる葉。いくつも、いくつもの葉が落ちる。しかし、私はその樹の変化に盲目でしかない。

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