おそれいる【恐れ入る】

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私は社会人になってすぐ、営業部に配属されました。まず、そこで覚えさせられた仕事は、お客様から頂いた注文の書籍を、メーカーである各出版社に電話で発注することでした。今でこそ、発注システムがありますので、注文品については仕入れ担当が基本的に一括管理していますが、当時はそんなシステムもなく、営業マンは朝から晩まで電話口で注文を繰り返すことも日常茶飯事でした。

出版・書店の業界には、「取次ぎ」と言う書籍専門の中卸があり、書店が本の注文をする場合、その取次ぎにまとめてするのが、実は最も一般的な方法です。と言うのも、お客様の注文品が、限られた出版社であることは非常に稀で、 50 冊の注文があれば、出版社は 50 社にわたることは当たり前のことです。

だからと言って、その 50 社にそれぞれ注文をしていると、 50 回電話やファクシミリをしなければならず、大変手間がかかります。ですから、それらを取り仕切ってくれる、取次ぎにまとめて注文を出し、店まで配送してもらうのが、通常の発注の流れなのです。

しかしながら、私たちは取次ぎにまとめて注文を出さず、それぞれの出版社へ直接電話で注文していました。これは、お客様へ少しでも早く納品できるようにという、われわれの小さな努力の積み重ねだったのです。

もし取次ぎにお客様の注文全部をまとめてお願いしてしまうと、営業担当は一回注文を出せば済みますが、取次ぎから出版社へ注文が行くまでに、それ相応の時間がかかってしまいます。人に任せると楽ですが、そのために時間が掛かるわけです。取次ぎから各出版社へ注文する時間を短縮するために、われわれ営業マンは、電話と格闘していたのでした。

こうして、社会人一年生の私は、朝一番からお客様の注文に従って、それらの書籍を発行している出版社に電話をすることになりました。今ならば仕事の電話で緊張することはそうありませんが、当時の私はまず電話をすることがちょっとした苦痛のタネでした。

それに加えて、業務にも慣れておらず、たどたどしく頼りない注文の電話をしていたと思います。録音していたわけではないので、今では確認できませんが、想像に難しくありません。注文を受けてくれる出版社の方々は、ほとんどベテランの方ばかりでしたので、不慣れな新人の電話のために、きっとさまざま迷惑を被っていたことでしょう。

そのためか、電話口でつっけんどんな対応をされてしまったり、互いに喧嘩腰なやり取りになってしまうことも少なくありませんでした。先にも述べた通り、私は元から電話が苦手だったせいもあり、日に日に注文の電話をすることが嫌になっていきました。それでも、お客様から注文を頂いたら、電話をしなければなりませんので、責任を果たさねばと感じながら、何とかこの辛さから逃れられないものかと、毎日思い悩むようになっていました。

そんなある日、会社の先輩のかける電話を聞いていて、ちょっとだけではありますが、自分とは違うことに気づきました。その先輩は大らかな性格で、社内社外問わず、誰とでもフランクに接している人だったのですが、その人がかける電話は、必ず「恐れ入ります。○○社の~」で始まっていたのです。私の頭に「恐れ入ります」ということばが、ひっかかりました。

それまでの私は、いざこざが起きないようにと考えるあまり、何とか電話口で負けまい負けまいと、無意識の内に相手の上に立とうとばかりしていたのです。もちろん、そう言った気持ちを直接表現しているわけではないのですが、こんな気持ちをもった人の電話では、出てくれた人もいい感じがしません。それが災いして、逆に、いつもいつもちぐはぐなコミュニケーションになってしまっていたのでしょう。

私は、先輩の「恐れ入ります」に気づいてから、最初は口真似だとしてもいいやと思い、電話をする時はいつも言うように心がけました。初めはうまく言えなかったり、気持ちがこもっていなかったりしましたが、不思議なもので口が慣れ、はっきり言えるようになると、ああ電話に出てくれてありがとうと言う気持ちまで、私の中に自然と感じるようになってきました。

そして、それに伴って、今までギクシャクしてきた電話注文でのやり取りも、和やかに出来るようになったのです。たった一言ではありますが、私にとって、それは奇跡を起こすマジックのようなことばだったのです。

今も私は、電話をする時、それはどんな方に電話する時でも、「恐れ入ります」と一言謝意を述べてから自分の名前を名乗ります。それは、過去の自分の失敗を繰り返さないためであり、そしてこれから生まれ行く一期一会の出会いに対する敬意のことばでもあるのです。

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