ラッセル【『一日一文 英知のことば』から学ぶ#033】


【2月2日】ラッセル:1872.5.18~1970.2.2

義務感は、仕事において有用であるが、人間関係ではおぞましいものである。人びとの望みは、人に好かれることであって、忍耐とあきらめをもって我慢してもらうことではない。たくさんの人びとを自発的に、努力しないで好きになれることは、あるいは個人の幸福のあらゆる源のうちで最大のものであるかもしれない。

『ラッセル 幸福論』安藤貞雄訳、岩波文庫、1991年

【アタクシ的メモ】
周囲の人たちを好きになれるかどうかで、個人の幸福度は変わるということか。確かにそうかもしれないが、「義務感」との関係性が、よくわからなかった。


徳冨蘆花【『一日一文 英知のことば』から学ぶ#032】


【2月1日】徳冨蘆花:1868.10.25〜1927.9.18

諸君、幸徳君らは時の政府に謀叛人と見做されて殺された。諸君、謀叛を恐れてはならぬ。謀叛人を恐れてはならぬ。新しいものは常に謀叛である。「身を殺して魂を殺す能わざる者を恐るるなかれ」。肉体の死は何でもない。恐るべきは霊魂の死である。人が教えられたる信条のままに執着し、言わせられるるごとく言い、させられるごとくふるまい、型から鋳出した人形のごとく形式的に生活の安を偸んで、一切の自立自信、自化自発を失う時、すなわちこれ霊魂の死である。我らは生きねばならぬ。生きるために謀反しなければならぬ。

『謀叛論 他六篇・日記』中野好夫編、岩波文庫、1976年

【アタクシ的メモ】
「新しいものは常に謀反であり、生きるために謀反しなければならない」という。言葉だけ聞くと決して間違っていないのではあるが、なぜ「謀反」という言葉を使わなければならないのか。「肉体の死は何でもない」と言い切るのも、やや気になる。


孟子【『一日一文 英知のことば』から学ぶ#031】


【1月31日】孟子:前372~前289

人皆人に忍びざるの心有りと謂う所以の者は、今、人乍に孺子の将に井に入ちんとすれば見れば、皆怵惕惻隠の心有り、交を孺子の父母に内ばんとする所以にも非ず、誉を郷党朋友に要むる所以にも非ず、其の声を悪みて然るにも非ざるなり。(「公孫丑上」)

誰にでもこのあわれみの心はあるものだとどうして分かるのかといえば、その理由はこうだ。たとえば、ヨチヨチ歩く幼な子が今にも井戸に落ちこみそうなのを見かければ、誰しも思わず知らずハッとしてかけつけて助けようとする。これは可愛想だ、助けてやろうとの一念からとっさにすることで、もちろん助けたことを縁故にその子の親と近づきになろうとか、村人や友達からほめてもらおうとかのためではなく、また、見殺しにしたら非難されるからと恐れてのためでもない。

『孟子』(上)、小林勝人訳注、岩波文庫、1968年

【アタクシ的メモ】
自然の善意についての記述だろうか。ここでは「忍びざるの心(あわれみの心)」と表現されている。


ガーンディー【『一日一文 英知のことば』から学ぶ#030】


【1月30日】ガーンディー:1869.10.2~1948.1.30

サッティヤーグラハ、または魂の力は英語で「受動的抵抗(パッスィヴ・レジスタンス)」といわれています。この語は、人間たちが自分の権利を獲得するために自分で苦痛に耐える方法として使われています。その目的は戦争の力に反するものです。あることが気に入らず、それをしないときに、私はサッティヤーグラハ、または魂の力を使います。

『真の独立への道』田中敏雄訳、岩波文庫、2001年

【アタクシ的メモ】
「サッティヤーグラハ」は、マハトマ・ガンディーがつくった言葉のよう。ここでは受動的抵抗と表現されているが、非暴力不服従と言った方がわかりやすいのではないか。


チェーホフ【『一日一文 英知のことば』から学ぶ#029】


【1月29日】チェーホフ:1860.1.29~1904.7.15

人間は物を考える理性と、物を創り出す力とを、天から授かっています。それでもって、自分に与えられているものを、ますます殖やして行けという神様の思し召しなんです。ところが、今日まで人間は、創り出すどころか、ぶち毀してばかりいました。森はだんだんと少なくなる、河は涸れてゆく、鳥はいなくなる、気候はだんだん荒くなる、そして土地は日ましに、愈々ますます痩せて醜くなってゆく。

『ワーニャ伯父さん』神西清訳(『チェーホフ全集』12、中央公論社、1968年)

【アタクシ的メモ】
この当時から、自然などの環境破壊は問題になっていたということか。現在と比べると、きっとそれほどではないように思うのだが。


ドフトエフスキー【『一日一文 英知のことば』から学ぶ#028】


【1月28日】ドフトエフスキー:1821.10.30~1881.1.28

神がほんとうに存在するといことが不思議なのじゃなくって、そんな考えが、――神が必要なりという考えが、人間みたいな野蛮で意地悪な動物の頭に浮かんだということが驚嘆に値するのだ。そのくらいこの考えは神聖で、殊勝で、賢明で、人間の誉れとなるべきものなんだ。

『カラマーゾフの兄弟』(二)、米田正夫訳、岩波文庫、1957年

【アタクシ的メモ】
神と人間は対極の存在であり、その一方で人間の頭や心の中にあるものと想定されている。神を想像し、求めることが、人間が神に近づく唯一の方法なのだろうか。


ルイス・キャロル【『一日一文 英知のことば』から学ぶ#027】


【1月27日】ルイス・キャロル:1832.1.27~1898.1.14

「わしが言葉を使うときには」とハンプティ・ダンプティは、鼻であしらうように言いました。「その言葉は、わしがきめただけのことを意味するんじゃ――それ以上でも、以下でもなくな。」
「問題は」と、アリスは言いました。「一つの言葉に、そんなにいろんな意味を持たすことができるのか、ってことです。」
「問題は」と、ハンプティ・ダンプティが言いました。「どっちが主人か、ということ――それがすべてじゃ。」

『鏡の国のアリス』脇明子訳、岩波少年文庫、2000年

【アタクシ的メモ】
言葉とは、やはり相対的である。「愛しい」と言っても、十人十色の愛しさがあるし、発言するAさんと聞き手のBさんとの関係性によっても、意味や伝わることは変わってくる。


明恵【『一日一文 英知のことば』から学ぶ#026】


【1月26日】明恵:1173.1.8~1232.1.19

秋田城之介道覚知、遁世して梅尾に栖みける比、自ら庭の薺を摘みて味噌水と云う物を結構して上人にまゐらせたりしに、一口含み給ひて、暫し左右を顧みて、傍なる遣戸の縁に積りたるほこりを取り入れて食し給ひけり。大蓮房座席に候ひけるが、不審げにつくづくと守り奉りければ、「余りに気味の能く候程に」とぞ仰せられける。

『明恵上人集』久保田敦・山口明穂校注、岩波文庫、1981年

【アタクシ的メモ】
秋田城之介道覚知が、明恵上人に雑炊をつくったところ、「あまりにも美味しくて」といって、ほこりを入れて食べた。物質的、身体的な欲望を「執着」として、否定したようだ。


モーム【『一日一文 英知のことば』から学ぶ#025】


【1月25日】モーム:1874.1.25~1965.12.16

およそ良心というものは、社会が自らを維持する目的でつくった規則が守られているかどうかを監視するために、個人の内部に置いている番人である。個人が法律を破らぬよう監視するために、個人の心の中に配置された警官だとも言えよう。自我なる要塞に潜むスパイなのだ。世間の人に支持されたいという人間の願望はとても強く、世間の非難を恐れる気持ちはとても激しいので、結局、自分の敵を自分の城内に引き入れてしまったのである。

『月と六ペンス』行方昭夫訳、岩波文庫、2005年

【アタクシ的メモ】
「良心」は、人が他者から認められたい、あるいは非難されたくないとつくり出したということか。自然と生まれたり、獲得できるのではなく、他者の目があるからこそ、自分の敵である良心を生み出すという。性悪説。


ホフマン【『一日一文 英知のことば』から学ぶ#024】


【1月24日】ホフマン:1776.1.24~1822.6.25

そのとき、けだかい美しさと気品を備えたゼルペンティーが寺院の奥からすがたを現す。彼女は黄金の壺をたずさえている。その壺から美しい百合の花が一輪咲き出ている。かぎりないあこがれが言い知れぬほどの歓喜となって、彼女のやさしいひとみにもえている。こうして彼女はアンゼルムスをじっと見つめて、口をひらいた――「ああ、いとしいかた! 百合が花を開きましたわ――最上の願いが達せられました。わたしたちのしあわせに比べられるようなしあわせがこの世にあるでしょうか」

『黄金の壺』神品芳夫訳、岩波文庫、1974年

【アタクシ的メモ】
百合の花が咲くことが、最上の願いであり、それがしあわせだという。ささやかな事柄でも大いに喜べるのか、それとも、これまでの何らかの経緯で、強い願いになっていたのだろうか。