すてる【捨てる】


「捨てる」と言うと、きっと悪いイメージしか持たないでしょう。物を捨てるなんて、もったいない。女性を捨てるとは、なんてひどい人。希望を捨てるのは、ああ絶望、というように。

若い年代の人は、物が豊富な時代に暮らしているので、何でも粗末にすると言われがちですが、まわりを見回してみると、老若男女問わず、案外みんな物を捨てないように思います。他人の私から見ていると、何が大切なのだろうと頭をひねるようなものでも、大事にしまっていたりします。

かく言う私も、ロックが好きなこともあり、高校生の頃から溜め込んだ 1500枚以上のCDを熱心に飾っては、大して聴きもしないものも多いのに、悦に入っている有様でした。あまり気に入らなかったものでも、一度購入したものは、なかなか捨てられなかったのです。

そのため私の部屋もご多分にもれず、大量のCDをはじめ、買ったのにずっと読まない本、読み終わったけど捨てない雑誌、何となく気に入らないのでほとんど着ないけど高かったので処分できない洋服などなど、たくさんの活用できていないモノであふれてしまっていました。

また、物理的な空間だけでなく、読んでいない本や雑誌、目を通すべき仕事の書類、そして毎日配信されるメールが、すぐには処理できないで溜まるばかりになっています。私ののろい頭では情報が有り余ってしまい、何が何だかわからなくなったりもしました。「豊かな生活を」と思って集めたモノによって、逆に混乱を招いてしまったわけです。

こんな状況で一大決心をしました。「とにかくいらないモノは捨てよう。シンプルな生活にしよう」と、私なりに心に誓ったのです。そうしないと、小さな部屋はモノに占領されてしまい、私の中に生じてしまった混乱や焦りも、消すことはきっと出来ないだろうと考えたからです。

まずはコレクション化して、ずっと手にも取らなかった雑誌を捨てました。読もうと思って買っただけの書籍も、古本屋に売りました。さらに、何となくずっと買い続けていただけのアーティストの CD も中古として処分しました。サイズがあっていない洋服、もう着なくなった洋服も、周りの人に譲ったりして、必要なものだけにしました。

いくら大きく決心していたとしても、捨てるということにもちろん罪悪感が起きましたし、中には思い出の品々もありましたから、簡単に捨てられたというわけではないのです。「えい」とばかり捨てたモノも多々あったのが実情です。

それでも、モノを捨てて自分の部屋が整理できてくると、すっきりと心地よい気持ちになりました。そして何より、残った本当に必要なモノが、どれだけ大事であったかわかったような気がしたのです。捨てたりして処分したモノは、山ではなく枯れ葉で、賑わいに過ぎなかったようです。

まだ使えるものであればなおさらでしょうが、やはりモノを捨ててしまうことは、もったいないことかもしれません。でも、モノは活かしてこそ、上手に使ってこそ、価値があると思うのです。生活の主役は、モノではなくヒトなのですから。

部屋はさっぱりとモノが少なくなり、それを出来るだけ維持しようと、今私は暮らしています。モノを買うときも、今まで以上に吟味して購入します。安いだけで使い道の不明確なモノは、もう買わないようにもしています。逆に、今までのモノを充分に手入れをしたり、大切に使ったりするようになりました。

「捨てる」と言うのは、一見モノを粗末にしている態度にも見えますが、捨て方によっては、よりモノを慈しむ行為、少なくともその過程に必要な行為に、私の経験からは思えるのです。


しんじん【新人】


幕張に引っ越してから、もう5年以上経つのですが、そのときからずっと髪を切ってもらっている理容室があります。不慣れな場所だったので、どこの床屋さんがよいのかも知らず、何となく目に付いたところに入りました。店内は明るく、やけに愛想がよく、カットの腕も結構上手に感じたので、そのままずっと今も通っているのです。

3月は卒業もありますし、異動などが集中する時期だと思いますので、やはり別れの季節なのでしょう。その次の月である4月は、入学や入社などがありますから、新品の学生服や着慣れていないスーツ姿を多く見かける時期だと思います。いわば新人さんの季節と言えるかもしれません。ですから、もうちょっとすれば、ちまたは「新人の季節」となるわけですね。

何月だったかはあまりよく覚えていないのですが、確か2~3年前、先にいった理容室にある日散髪しに行くと、新人さんらしき「佐藤さん」という女性が配属されていました。この店は、千葉県内に何店舗かもつチェーン店で、人の循環も多く、急に馴染みの店員さんを見かけなくなったり、また再会したりしていたので、最初はさして気にすることもなくいました。

その日も、何度も切ってもらっていた方に、いつものように髪を切ってもらっていたのですが、いつしかコロコロとした体格の新人佐藤さんが、何気なくではありますが気になり始めました。というのも、お客さんへかける声も、何だか子どもじみた舌足らずな話し方ですし、背が小さいせいもあり、急いで動くとテキパキというよりも、ドタバタした印象を与えていたからです。

新人さんですから、当たり前と言えば当たり前なのかもしれませんが、何事もあまり器用にこなせないようで、素人の私から見ていても、大丈夫かなあと心配させる状態でした。そんな具合ですから、店長を初め、周りの先輩の方々も彼女の仕事振りをしきりと気にしているようでした。

2カ月くらい経って、また散髪に出かけたところ、はたして彼女はいました。そして私には 、以前と変わらぬ仕事振りに見えました。しばらく経っているのに、あまり進歩がないように感じたのです。そのせいか、周りの同僚も厳しく接しているようで、何となく店内の雰囲気も殺伐としたところがありました。

その次のときは、営業時間中、お客さんのいる前で、店長に怒られていました。「やる気があるなら、きちんと行動で示さないとダメだ」と、もっともなお叱りを受けていたのです。私の背中で説教は行われていて、鏡に彼女の姿は映っておらず見えませんでしたが、きっとうなだれていたのではないでしょうか。

そんな佐藤さんでしたが、何度か行くうちに、髪を洗ってもらったり、顔を剃ってもらうようになりました。やはり何だかたどたどしいところはありましたが、経験を積んでいくうちに、少しずつではありますが、しっかりしてきたと思えるようになっています。

さらに、半年くらい前に散髪に行くと、今までならカットの準備作業までしかしなかった彼女に、とうとう私の髪を切ってもらうことになりました。昔から佐藤さんを知っている私は、いくら成長を肌で感じていたとはいえ、正直なところ、緊張してしまいました。

素早い鋏さばきとは言えませんが、ふっくらとした手を着実に、一生懸命に動かし、私の伸びた髪が少しずつ整髪されていきます。仕上がりも、思っていたほど悪い出来ではありませんでした。というよりも、他の人以上に上手に切ってもらえたように感じたのです。

理容師さんの上手下手は、髪が伸びたときにわかると思っています。理容室で切ったときは、ブローや整髪料でごまかすことも可能だと思いますので、伸びたときでもまとまりやすく、整えやすく切るのがプロの力量であり、技だと思うのです。そういう意味で、佐藤さんのカットは、不思議と長持ちしますし、結構いつまでもまとめやすいのです。

ついこの間も、私は髪を切ってもらいました。たまたまですが、佐藤さんです。あの舌足らずな感じやスマートに動けない振る舞いは健在ですが、私は安心して切ってもらいます。むしろ、佐藤さんに切ってもらえてうれしいと思うようになっていました。

初めて見たときの佐藤さんは、本当に何も上手くできない新人さんだったと思います。注意ばかりされていた時期もあったと思います。それでもきっと、彼女は努力していたのでしょう。だからこそ、こうして1人ではありますが、たった1人かもしれませんが、お客さんに好かれる存在となったのではないでしょうか。これからも佐藤さんの成長を、出来るだけ見ていきたい、と考えています。


さがす【探す・捜す】


例えばインターネットや e メールが、何かの都合で使えなくなったりしたら、大変困ってしまう人は、思いの外多いのではないでしょうか。

少なくとも私などは、毎日インターネットを利用して、仕事に必要な情報を収集したり、プライベートな情報のやり取りにも使用したりしていますから、今、私からインターネットを取り上げられてしまうと、仕事は滞り、生活も暮らしづらくなり、ライフスタイルの大幅な変更を強いられてしまいます。

最近の調査によると、日本でのインターネット人口は、5000万人を超え、普及率も40%以上だそうです。単純に考えても、老若男女問わず大体二人に一人は、インターネットユーザーになるわけです。

これだけインターネットが普及したのには、いくつも理由があると思うのですが、1つの大きな要因に、情報量の豊富さがあると思います。豊富と言うよりも、むしろ過剰と言った方がよいかもしれませんが、それくらい、インターネットには情報があふれています。

試しに自分の会社名を、 Yahoo!やGoogleで検索をしてみると、約5000件のヒットがありました。このヒット件数の全内容を確認しようとすると、どれくらいの時間が必要なのでしょうか。

きっと、1日中パソコンの画面を見ていても、読み終わらないのではないかと思えます。もちろん、その検索結果は、玉石混交と言えるとは思いますが、人間1人で処理できる情報量を大幅に超えていると思われます。

また電子的な情報だけでなく、既存の紙媒体でも既に出版された書籍は、現在手に入るものだけで約70万タイトルにも上り、毎日200冊くらいの新刊が刊行されていると言います。日々、印刷された情報が、すごい勢いで増え続けているわけです。

このような状況ですから、関連するすべての本に目を通し、内容を理解した上で、その中身の良し悪しを判断すること、そこから仕入れた情報を全部頭の中に蓄積し、適宜必要に応じてきれいに提示することは、ほとんど無理と言えるでしょう。しているように見えたとしても、それはすべての情報を網羅しているとは、とても言えないと思います。

「受験」を代表とする学校教育では、教科書を読んで知識を記憶し、それを試験などの場で諳んじられるかどうかばかりを重視されているように感じます。まだまだ、教育とは知識を習得させることで、優秀な人間とは知識を保持し出力できる人と認識されているようです。

もちろん知識や情報を持っていることは、優れた能力と言えるでしょう。しかしながら、先程も申し上げた通り、現代は大量の情報があふれ、しかも速いスピードで膨張しています。これらすべてを1人で把握し、コントロールしようとするのは、人間の限界以上の行為だと思うのです。

少なくとも、益々グローバル化が進み、混沌としているビジネスの現場などでは、何でもわかる人などはいなくなっております。何にでも即答できる人や、ゼネラルな回答ができる人が、今後求められる人材と言えるのでしょうか? 何故なら、そういった人たちは、情報全体をハンドリングしているとは言いがたいからです。

今持っている知識や情報だけで判断する人ではなく、むしろ新しい情報、変更された知識を、必要とあらばいつでも探し出せる人の方が、これからの世界で活躍するように思えます。これまででは考えられなかったほど大きい“情報の山”を目の前にして、そこからいかに有用な情報を抜き出すかという技術や知恵を持った人間です。

それについて詳しい人を知っているといった人脈の広い人や、キーワードをうまく設定できるサイト検索の達人、各書店の得意分野と不得意分野を熟知していて欲しい本を素早く的確に買える人、こういった人たちの方がより重要性を増すのではないでしょうか。「知る」ための方法を知っていること、つまり情報を「知る」のではなく、「探す」ことこそに力点は動いているように思えます。


こくさいてき【国際的】


ついこの間、久しぶりに新宿南口にある高島屋に行って、ちょっとした変化に気づきました。エスカレーターを乗り降りするところにあるフロアの案内板が、「 7F :紳士服・ネクタイ・紳士雑貨・紳士靴」のような日本語だけでなく、英語、中国語、韓国語でも書かれていました。

以前はどうだったのかという明確な記憶はありませんが、少なくとも中国語と韓国語は無かったと思いますので、ここ最近の内に新しく作られたのでしょう。そういえば、このデパートで中国の方や韓国の方が買い物をしている姿を、私も何度か見かけていました。

最近の日常生活を思い返してみても、人がたくさん集まる場所に行くと、英語はもちろん、中国語や韓国語、その他の言語を耳にすることが、とても多くなってきました。居酒屋やコンビニに行っても、結構な割合で中国人の方など働いています。

先日、韓国映画の試写会に行ったときも、前に並んでいた三人組は、中国語で話をしながら、恐らく日本製だと思われる携帯をいじっていました。何だかよくわからないくらい、たくさんの文化が入り混じった状況を目の前にして、時代が変わったなあと感じずにはいられません。単一民族国家と言われてきた日本ですが、今後一層の国際化は、もはや免れられない現実なのでしょう。

数学者であり大道芸人でもある、ハンガリー出身のピーター・フランクルさんは、テレビ番組で、「真の国際化とは何でしょう?」と問われたのに対し、「外国人の親友を一人でも二人でも作ること」と答えていました。彼は、数学者として大変優秀なのはもちろん、論文を読み書きできるレベルで 11 カ国語を操り、様々な国で暮らしきた経験があったので、仰々しい国際論を聞くことになるのでは、と私は勝手に予測していました。

ですから、正直に言って、先の彼の回答には、いささか拍子抜けしてしまいました。一人か二人くらい外国の友人ができても、それで「国際的」と言うのはちょっとオーバーじゃないかと思ったのです。しかしながら、この言葉のミソは、“親友”というところにありました。

彼が言いたかったのは、外国生まれの通り一遍な友達などではなく、深く信頼できる本当の意味での“親友”だったのです。違う文化の中で育ち、それを身に付けた者同士が、互いにコミュニケーションしていくなかで、それぞれの違いや共通するものを理解し共有できること、あるいはそこまで互いに意志をやり取りすることこそが、本当の意味での国際化だと言いたかったのでしょう。

異文化を理解し受け入れること、もっと抽象化して言えば、他者性を肯定できるまで受容することが、国際化の本質だというのです。ただ単に横文字表記にしたとか、単純に多くの言語をしゃべれるとか、外国人の友達がたくさんいるとか、その友達が色々な国の人だといったことではありません。

あなたと私に大きく横たわる深い溝を互いに認識し、たった一本でもいいから、揺るぎない橋をかけようとすることだけが、国と国、文化と文化の違いを本当に越え得ると言えるのでしょう。しかもそれは、他人や世間がするだろうという人任せなものではなく、私個人の行為として行われなければならないのです。

こうして考えてくると、真に国際的な人というのは、語学が堪能だとか、外国経験が多いということではなく、他者との違いを無視したり、排除したりしない人と言えそうです。例えば同じ日本人同士だとしても、意見が合わない人や気が合わない人など、違うことだらけの人もいるでしょう。そのとき、すぐに考えや気持ちのやり取りを止めてしまうのは、今まで見てきた点から考えると、国際的とは言えないわけです。

相手の国籍にかかわらず、いつも互いを知り、信頼しようとする人こそ、本当の国際人と言えそうです。そうした意味では、私たちは外国の方と接していなくても、国際的な人間になることがきっと可能なのでしょう。「国際的」「国際化」などと言うと、すぐに外を向いてしまいがちですが、まずは自分の国や私たち自身の中身をよく見直すべきなのかもしれませんね。


けいけん【経験】


けいけん【経験】

ある日の我が家の夕食は、キムチ鍋とカツオのたたきでした。当初、カツオのたたきは予定にはなかったものの、スーパーに買い物に行った父親が、安かったからと買ってきて、食卓に並べられることになったのです。キムチ鍋が煮える前に、私は薬味をたくさんふりかけられたたたきを、まず口にします。安売りのカツオだとは言え、なかなかにおいしく、冷えたビールにもあっており、私は父にそっと感謝しました。

そう言えば、少年だった頃の私は、魚の生ものはあまりおいしいとは思えず、唯一食べる刺身と言えば、イカとタコくらいで、それも淡白な味だからでした。両親や兄が、マグロやタイなどのいわゆる高級魚の刺身をおいしそうに食べる姿を見ては、ちょっと不思議な気持ちになり、時に自分でも試しに食べてみるのですが、やはり彼らの味覚を理解できずに終わっていました。

こうしてたまにではありますが、苦手な魚の刺身を食べたりしているうち、自分でも気づかぬまま、私はマグロやタイを食べられるようになっていました。さらに、食べられるようになっただけではなく、むしろ大変おいしいと感じ、自ら好んで食べるようになったのです。

刺身が好物になったので、食べる機会も断然多くなり、このマグロは高いからおいしいなあとか、このタイは安い割にはまあまあかな、この店のイカは高いけど古いからかおいしくないぞ、などと色々品評できるようにもなりました。要するに、経験を積み重ねるうちに、刺身の良し悪しを、それなりに理解できるようになったわけです。

「たくさんの経験をすることはよいことだ」といった主旨の発言を聞くことは、少なくないと思います。世間一般でも、そうした認識が、随分浸透しているように感じます。「やらないよりやった方がよい」であったり、「経験になるから、とりあえずやっておけ」であったり、様々な場面で「経験する=よいこと」という論理に出会います。

確かに、先述の刺身のように、経験を重ねたおかげで身につくことを、否定するわけではありません。それでも、経験すればするほど、必ず我々は賢くなってゆき、それについて知っていけると言えるのでしょうか。私は「経験に比例して、きっと物事の理解が高まる」という考えに、あまり同意できない気持ちがあります。

私がここでむしろ述べたいのは、経験にも「意義深い経験」と「意味のない経験」があるのではないか、ということです。もし経験の数こそが理解を促進するのであれば、経験豊富な年配の方のみが正しく評価できることになります。若者や幼い人など経験が少ない者の判断は、いつも欠けているということになってしまいます。これでは、あまりに単純で、不自然な思考と言ってもよいでしょう。

メジャーリーガーのイチローや、セリエAの中田は、それぞれの競技で、若くしてトップの座をつかんでいました。彼らの活躍は、単純な経験の多さだけが結果を導くものではないことを、示してくれているようです。中田などは、高校生の頃から、自分たちの行う練習の意味や効果をよく考え、理解しようとしていました。そのため、たびたび監督に相談したり、時には食ってかかったりしていたそうです。また、漫然と練習しているチームメートに、容赦なくその態度を改めるよう指摘をしていたとも聞きました。

イチローも、誰よりも負けぬほど、人一倍練習していますが、きちんと目的を定めた鍛錬をしているようです。彼らが一流と呼ばれているのも、“ありふれた経験”ではなく、“一流の経験”を積み重ねたからではないでしょうか。

われわれは生きて行く中で、多くの経験をしています。朝起きて歯を磨き、電車で通勤し、職場や学校で多くの人に会います。自分の趣味も楽しむでしょうし、偶然に人とぶつかるかもしれません。もちろん、一生をかけて成し遂げようと、何かに努力しているかもしれません。

こういった一つひとつの経験を、ただ漠然と経験するのと、ことの本質を掘り下げようとする経験とでは、大きな違いを生むのだ、と私には思えます。ですから私は、経験の量だけを誇るのでなく、経験の質にこそ気を払いたいと常々思っているのであります。


くつ【靴】


元来革製品が好きなせいもあって、革靴を買うということは、私にとってなかなかの一大事業であります。いわゆる“いい靴”は、それなりの値段がしますので、簡単に買い換えられません。「オシャレは足元から」とよく言いますし、「良い革靴は一生ものだ」などとも聞きますので、余計に力が入ってしまいます。

初めて革靴を購入したのは、確か高校に入学した頃でした。黒いプレーントゥ(つま先に何の飾りのないもの)を親に買ってもらったのです。当時は、靴との付き合い方も知らず、雨の日でも気にせず、毎日毎日履きつづけていました。手入れと言ってもほとんどせず、気が向いたときに靴墨をちょっと塗る程度でした。

そんな扱いでしたので、 3 年生になる頃には、よく曲がる甲の脇の部分に穴が空いてしまいました。見た目にもみすぼらしく、実質的にも砂が入ってしまったりと、靴として機能しなくなってしまったので、気に入ってはいましたが、その靴は処分することにしました。処分してからは、学生服にはスニーカーを合わせる方が、何となく格好よく感じたりもして、革靴と縁遠くなったまま卒業式を迎えました。

この後、私の革靴の扱い方に、いくつか問題があったことを知りました。革靴はできるだけ間隔をあけて履くこと。 3 ~4 足でローテーションを組んで履くのが望ましい。水にはできるだけ濡らさないようにすること。濡れた場合は、日陰などでゆっくりと確実に乾かすこと。油分が抜けていたら、クリームなどで補給してやること。靴墨を塗りすぎると革が呼吸できなくなるため、頻繁に塗らず、塗るときも薄く塗ること。そして、一度履いたらシューキーパー(シュートゥリー)などで靴自体を伸ばしてやること。このように、革靴は1つの生き物のような、デリケートなものだったのです。

20歳を向かえるに当たり、成人式用として革靴を買うことになりました。上のような知識を踏まえ、一生付き合える靴を、今度こそは買いたいと思い、私は真剣に靴を選びました。いくらきちんとしたメンテナンスで長持ちさせたとしても、時間が経ったら履けなくなるデザインや、デザイン自体を自分で気に入らなくなったりしては、元も子もありません。

さらに形だけでなく、材質や製法も慎重に検討して、オーソドックスな黒いカーフのプレーントウを、金額的にはちょっと無理をして購入しました。また、安い靴なら買えそうな値段だったので、大変迷いましたが、木製のシューキーパーも合わせて買いました。

大学生の頃は、革靴を頻繁に履く機会はなかったので、手入れも月に1、2度だけでしたが、会社に入り毎日履くようになってからは、何足か買い足して順繰りに履くようにしました。シューキーパーもそれぞれに用意して、履かないときはシューキーパーを入れ、革を伸ばしておきます。きちんと磨くようにもしていますし、油の補給にクリームも塗ってやります。

ですから、20歳に買った靴を筆頭に、どの革靴もずっと現役で履きつづけております。当然、靴底やかかとはすり減れば交換をしていますし、つま先を中心に結構な数の傷もあります。一足は、かかとの内側がすり減って革を張り替えもしました。それでも、アッパーの革はこちらの手入れを反映して、ピカピカと光っていますし、何より足を入れるとすっとフィットし、私の足を優しく受け入れてくれます。例えて言えば、幼馴染の親友と会話しているような、気楽な気持ちよさがあります。

最も長いものは 10 年以上履いてきたのですが、目ざとい方に「とてもきれいな靴だね」と言って頂けることも、いまだに少なくありません。そんな靴を眺めていると、私の気持ちや努力に応えてくれたように思え、感謝や愛着の気持ちが沸き起こってきます。

革靴は、もちろん1つのモノだとは思います。しかしながら、相手のことを理解し、相手のために働きかることで、より強く、より良い関係ができるように思えます。何よりこれらの靴たちは、私にとって長らく苦労をともにしてきた、かけがえのない友人みたいな存在なのです。


きまぐれ【気まぐれ】


あくまで私見ですが、「人間って気まぐれだなあ」と思っています。子どもや学生などの若いころは、当たり前のように気持ちが変わってゆき、周囲の人を困らせたり、迷惑をかけたりもします。それだけでなく、大人になり、会社などに勤める社会人となっても、終始一貫した考えをもって行動している人は、そうそう多くないだろうと感じています。

何年も前の約束や宣言だけでなく、数日前、ひどいときには数時間前とで、話や意見が変わってしまう人に会うことは、そう珍しいことでもありません。正直言って、お客様や会社の上司、同僚の気まぐれな話に、私が翻弄されたことも、一度や二度ではありません。もちろんその逆で、私の気まぐれな発言が元になり、周囲を振りますことも多々ありました。ですので、人間は気まぐれだというような考えを、自戒も含めて、私はこっそりと持ってしまっているのです。

もう1つ、「気まぐれ」というと思い出すことがあります。それは“ロボット”ということばです。なぜロボットかというと、中学生くらいのとき、星新一さんの『きまぐれロボット (角川文庫)』という文庫本を読んだ記憶が、私の頭に刷り込まれているからです。私にとっては、いわば個人的な枕詞のようになってしまっているのです。

この本との出会いは、まさに気まぐれが引き起こしたものでした。確か 13 歳か14 歳くらいのとき、兄の本立てにあった『きまぐれロボット』を何気なく手にし、かわいらしい表紙とページ数の少なさに、軽い気持ちで読んでみることにしたのです。パラパラとページをめくってみると、短い話がいくつも並んでおり、いくつか読んでつまらなかったらすぐに止めればいいや、と考えたからです。

しかし、内容を読み始めてみると、止めるどころか夢中になってしまいました。そのショートショートの連打には、ちょっと毒気のあるユーモアが、そこかしこにあったのです。幼い私は、何だか一足早く大人になったような、将来知る秘密を先に獲得できたような、そんな気持ちになり、星新一さんの作品を次々と読むようになりました。初めは兄が持っている文庫を借りていましたが、すぐに読破してしまい、書店に行って新しいものを買い込んでは、熱心に読むほどでした。

それまでの私は、それほど読書好きではありませんでしたが、これがきっかけで、本屋に行くことや本を読むこと自体も好きになり、星新一さんの著作に限らず、様々な本に積極的に接するようになりました。そういう意味では、たわいない気まぐれが、私の生活にいつしか変化をもたらしていたわけなのです。

このような昔のことを思い出すうち、私は久しぶりに『きまぐれロボット』を読んでみたくなって、三省堂本店の文庫コーナーに足を運びました。そこには、見た目もほとんど変わることなく『きまぐれロボット』(角川文庫/ISBN4-04-130303-6/本体340 円)が売られています。表紙も当時のままで、大変懐かしく感じられました。今回読み直してみても、人生はそううまくはいかないという、ユーモラスで幾分教訓めいた視点を、初めて読んだときと同じように見つけることができました。が、それだけでなく、新たに発見することも、いくつかあったのです。

その文体はとても平明かつ率直で、例えば子どもが読んでも、充分に理解できる文章だということに気づきました。だからこそ、中学生だった私でも、あの本に描かれていた未知の世界に、すんなりと入れたのでしょう。また、いきなり何の前置きもなく、夢のような薬を新発明するなど、大人になった私からすると、ちょっとご都合主義で強引な展開と言えなくもありません。

ただそれゆえ、これらの「お話」の世界が一気に構築されているわけですから、その様は心地よさすら感じました。中学生の私と今の私とで、「やはり随分と感じることは違っているんだな」と感じました。そして、やはりこの本は、今読んでもおもしろく、「子どもや大人を問わず、色々な人に読んでもらいたいな」とも思いました。

ふと本の奥付を見ると、この本の初版発行は昭和 47 年で、私が購入した文庫は、平成 14 年7 月 15 日に107 版として発行されたもののようです。約 30 年の間に、100 回以上も増刷され、多くの人がこの本を手に取ったのでしょう。最初に言った通り、人間は気まぐれだなものだと私は思っていますが、その気まぐれな人間も、良い本をずっと読み継いできたのだということに、改めて気づかされたのでした。


かわ【川・河】


高校生のとき、たまたま手にした雑誌の広告で、オートバイが何だかやけにかっこよく見えて、大学生になった私はバイクに乗り始めました。バイクに乗り始めると、色々なところに遠出するようになり、確か金沢にも2度ほど行ったと記憶しています。

1回目は、日本三名園の1つ兼六園を見て、その後能登半島をぐるりと回りました。そのとき、印象に残っているのは、古都の風情のある、細いくねくねした道でした。バイクなので、道が細くても気持ちよく走れたのです。2回目は、九州から新潟へ日本海側を走ったときだったので、通り過ぎただけでした。

ある友人に兼六園を見に金沢を訪れたと言うと、「犀川はどうだった?」と聞かれました。彼女は、室生犀星が愛した犀川もきっと見たのだろうと思って、その質問をしたようです。しかしながら私は、室生犀星も犀川も名前は知っていたものの、詳しいことは知らず、またその関係についても無知の状態でした。ですので、もしかしたら通りかかったのかもしれませんが、きちんと見ることなく帰って来てしまっていたのです。

こうして彼女から、犀星はその川から名前を取るほど犀川を大事に思い、川のほとりをよく歩いたという話を教えてもらいました。なので、2度目に金沢市内を走ったときは、オートバイに乗ったままでしたが、犀川をじっと眺めました。橋の上から見えるその川は、静かに街の中を流れていました。そして、流れにそった河原を犀星が歩いた過去を、私はそっと想像してみました。

ちょうどその頃、両親が熊本に住んでいたので、帰省の際には私も何度か熊本市内を歩きました。熊本には、阿蘇から流れている白川がありました。市内の川は、もうすぐ海へと流れ出るので、ゆうゆうと街の中を流れています。なぜだかわかりませんが私には、白川が街を支えているように見えました。

阿蘇にある白川の水源を見に行ったこともあります。そこには無色に透き通った小さな池くらいの泉があるだけでした。この山奥の小さな水源から何十キロも離れた海まで脈々と注ぎ、その流れが街を包み込むように思えるほど、悠然としたものになってしまうことに、私は不思議な感覚を覚えました。

また、私の学生生活は東北の仙台でした。市内には、「青葉城恋唄」の中でも歌われる広瀬川がありました。この川は、とても曲がりくねって流れています。広瀬川の上を橋で越えても、しばらくするとまた広瀬川に出くわすといった感じで、ちょっとどこかに行くだけで、十回近く広瀬川を渡ることも珍しくないほどでした。それだけでなく、場所によっては、水量も少なくさらさらと流れ河原があるようなところや、切り立った崖のようなところを深い水がぐうっと流れるようなところなど、千差万別な顔を見せながら仙台を走っています。

もちろん私は、大学に通うとき、必ず川を越えて行きましたので、毎日のように眺めていました。若かった私は、悩み事があったりすると、近くの河原まで歩いて行き川面をずっと見つめたり、河川敷の散歩道を川に添うように歩いたりもしました。秋になると、芋煮という習慣が仙台や山形にはあったので、仲がよい者や研究室で広瀬川の河原に集まり、煮た芋を食べながら一日中酒を飲んだりもしました。ですから、仙台で暮らす私にとっては、とても身近な川になっていたのです。

きっと川は、ただ流れているだけなのでしょう。山の中で湧き出した水が、高いところから低いところへと下っていくだけなのだと思います。そこには、「ただそうである」といった穏やかな摂理が感じられます。しかしながら、その自然のなすがままな態度に人間が触れると、文学や歌が生まれ、街を育み、そして守り、人の生活の支えや伴侶となったりするように感じます。

世界四大文明は川の流域で生まれました。肥沃な土地を運んだり、交通の便になったりと、その発生には合理的な理由もあるのでしょう。ですが私には、人に何かしらのパワーを与える魔術を、川が持っているように思えてならないのです。


おそれいる【恐れ入る】


私は社会人になってすぐ、営業部に配属されました。まず、そこで覚えさせられた仕事は、お客様から頂いた注文の書籍を、メーカーである各出版社に電話で発注することでした。今でこそ、発注システムがありますので、注文品については仕入れ担当が基本的に一括管理していますが、当時はそんなシステムもなく、営業マンは朝から晩まで電話口で注文を繰り返すことも日常茶飯事でした。

出版・書店の業界には、「取次ぎ」と言う書籍専門の中卸があり、書店が本の注文をする場合、その取次ぎにまとめてするのが、実は最も一般的な方法です。と言うのも、お客様の注文品が、限られた出版社であることは非常に稀で、 50 冊の注文があれば、出版社は 50 社にわたることは当たり前のことです。

だからと言って、その 50 社にそれぞれ注文をしていると、 50 回電話やファクシミリをしなければならず、大変手間がかかります。ですから、それらを取り仕切ってくれる、取次ぎにまとめて注文を出し、店まで配送してもらうのが、通常の発注の流れなのです。

しかしながら、私たちは取次ぎにまとめて注文を出さず、それぞれの出版社へ直接電話で注文していました。これは、お客様へ少しでも早く納品できるようにという、われわれの小さな努力の積み重ねだったのです。

もし取次ぎにお客様の注文全部をまとめてお願いしてしまうと、営業担当は一回注文を出せば済みますが、取次ぎから出版社へ注文が行くまでに、それ相応の時間がかかってしまいます。人に任せると楽ですが、そのために時間が掛かるわけです。取次ぎから各出版社へ注文する時間を短縮するために、われわれ営業マンは、電話と格闘していたのでした。

こうして、社会人一年生の私は、朝一番からお客様の注文に従って、それらの書籍を発行している出版社に電話をすることになりました。今ならば仕事の電話で緊張することはそうありませんが、当時の私はまず電話をすることがちょっとした苦痛のタネでした。

それに加えて、業務にも慣れておらず、たどたどしく頼りない注文の電話をしていたと思います。録音していたわけではないので、今では確認できませんが、想像に難しくありません。注文を受けてくれる出版社の方々は、ほとんどベテランの方ばかりでしたので、不慣れな新人の電話のために、きっとさまざま迷惑を被っていたことでしょう。

そのためか、電話口でつっけんどんな対応をされてしまったり、互いに喧嘩腰なやり取りになってしまうことも少なくありませんでした。先にも述べた通り、私は元から電話が苦手だったせいもあり、日に日に注文の電話をすることが嫌になっていきました。それでも、お客様から注文を頂いたら、電話をしなければなりませんので、責任を果たさねばと感じながら、何とかこの辛さから逃れられないものかと、毎日思い悩むようになっていました。

そんなある日、会社の先輩のかける電話を聞いていて、ちょっとだけではありますが、自分とは違うことに気づきました。その先輩は大らかな性格で、社内社外問わず、誰とでもフランクに接している人だったのですが、その人がかける電話は、必ず「恐れ入ります。○○社の~」で始まっていたのです。私の頭に「恐れ入ります」ということばが、ひっかかりました。

それまでの私は、いざこざが起きないようにと考えるあまり、何とか電話口で負けまい負けまいと、無意識の内に相手の上に立とうとばかりしていたのです。もちろん、そう言った気持ちを直接表現しているわけではないのですが、こんな気持ちをもった人の電話では、出てくれた人もいい感じがしません。それが災いして、逆に、いつもいつもちぐはぐなコミュニケーションになってしまっていたのでしょう。

私は、先輩の「恐れ入ります」に気づいてから、最初は口真似だとしてもいいやと思い、電話をする時はいつも言うように心がけました。初めはうまく言えなかったり、気持ちがこもっていなかったりしましたが、不思議なもので口が慣れ、はっきり言えるようになると、ああ電話に出てくれてありがとうと言う気持ちまで、私の中に自然と感じるようになってきました。

そして、それに伴って、今までギクシャクしてきた電話注文でのやり取りも、和やかに出来るようになったのです。たった一言ではありますが、私にとって、それは奇跡を起こすマジックのようなことばだったのです。

今も私は、電話をする時、それはどんな方に電話する時でも、「恐れ入ります」と一言謝意を述べてから自分の名前を名乗ります。それは、過去の自分の失敗を繰り返さないためであり、そしてこれから生まれ行く一期一会の出会いに対する敬意のことばでもあるのです。


えもんかけ【衣紋掛け】


先日たわいもない話をしているときに、ハンガーを指して「衣紋掛け」と言ったところ、相手から「エモンカケって何?」と聞かれました。幼い頃母親がよく使っていたので、私にとっては結構馴染み深いことばでしたが、確かにちょっと古臭いことばだとは思います。今だと、ハンガーと言わなければ、通じないのかもしれません。

年代のせいかとも思い、周りの人にこのことばを知っているか聞いてみることにしました。やはり私より一世代くらい若い人だと、知らなかったり、聞いたことがあるという程度でした。同年代や年上の方だと、知っている人がほとんどでしたが、「最近は使わないねえ」と言う人も多く、あまり馴染みのないことばになっているようです。

私は衣紋掛けとハンガーは全くの同義と思っておりましたが、「ああ、和服を掛けるやつね」と私の質問に答えた人がいました。それで、後から国語辞典をひいてみると、「和服を掛けておくための道具」とありました。私が理解していた意味も、実は正確なものではなかったようです。

また、もう1つの意味として「衣桁(いこう)」と書かれてありました。このことばは、明治の頃の小説でみたことあるかなあ、と言う程度です。たまたま私が調べた辞書には絵が載っていたので、ああこれかとわかりましたが、ことばの説明だけでは、つい立の骨組みのような家具をうまくイメージできなかったでしょう。使っていた私自身にとっても、実は、衣紋掛けが結構縁遠いことばになっていたわけです。

日本人が和服に接する機会も減ってもいるので、衣紋掛けと言うことばは、本来の意味が薄れたり使われなくなったりと、廃れていく一方なのかもしれません。ほとんど使われなくなった死語とは言えないまでも、死語に向かっていると言っても言い過ぎではないでしょう。パソコンで変換しても、一発変換は出来ませんでした。いつか、和服を掛ける場合であっても、ハンガーという表現が、衣紋掛けの意味を飲み込んでしまう日が来るのかもしれません。

ところで、和服を掛ける衣紋掛けは、基本的に細長い棒状の形をしていますが、徐々にその勢力を広げているハンガーは、いろいろな形のものがあります。クリーニング屋さんでもらうような、針金だけでできた細いもの。高級洋服店で見るような、木製のしっかりと厚みや重みのあるもの。同じハンガーと言っても、いろいろな種類や目的があるようです。

以前、高級な木製ハンガーの値段を調べたら、5千円以上したのでびっくりしました。財布買ったら入れるお金がなくなったではありませんが、そんなハンガー買えるお金があったら、ちょっとした上着が買えてしまうかもしれません。ややひがみ根性もあって、そんな高いハンガーなんて無駄じゃないのかと思っておりました。しかし、どうやら高級ハンガーが高級なのには合理的な理由もあるようです。

例えばスーツなどは、その肩の部分が一番大切なパーツで、値段の高いハンガーは、その大事な部分をきちんと保護する形と材質なのだそうです。ファッション業界では「スーツは肩で着る」と言い、このラインが最も重要なポイントとなるようです。

私がそれを実感したのは、映画『ローマの休日』のグレゴリー・ペックでした。彼の肩はバーンと張っており、正に高級ハンガーのような造詣で、現在から見るとオールドファッションと言えるスーツでしたが、スーツの肩からのラインが大変に美しく、私は憧れを感じたほどです。これを見て、スーツの肩を型崩れさせてはいけないということが、深く納得できたのです。

同じような生地を使ったスーツでも、売値が結構違うことがありますが、あれも厚いハンガーで運搬するか、しないかによっても影響されるそうです。つまり、商品の最も大事な部分を大切にして運ぼうとすると、容積をとってしまい、一度に運べる量が減り、それが価格を変化させるのです。高級スーツとは高級生地を使用しているからだけではなく、空間をより多く占有しているためでもあるわけで、われわれ消費者は、そのハンガーが確保した空間のためにも、コストを払っていることになるのでしょう。

グレゴリー・ペックのスーツ姿に感激し、スーツの肩は守るべきだと理解した私ですが、それでもやっぱり何千円もするような木製の高級ハンガーを買うことはできません。自分が持っている少ないスーツの数でも、もし買おうとしたら、何万円もの出費になってしまいます。仕方なく、ほうぼうで分厚いハンガーを探してみました。木ではなく、プラスチック製ではありましたが、「無印良品」で数百円で買える、それなりに納得できるハンガーが見つかりました。回し者などではありませんが、これは結構オススメできます。ただし、憧れの和製グレゴリー・ペックには、なかなかなれないでしょうね。