ついこの間、久しぶりに新宿南口にある高島屋に行って、ちょっとした変化に気づきました。エスカレーターを乗り降りするところにあるフロアの案内板が、「 7F :紳士服・ネクタイ・紳士雑貨・紳士靴」のような日本語だけでなく、英語、中国語、韓国語でも書かれていました。
以前はどうだったのかという明確な記憶はありませんが、少なくとも中国語と韓国語は無かったと思いますので、ここ最近の内に新しく作られたのでしょう。そういえば、このデパートで中国の方や韓国の方が買い物をしている姿を、私も何度か見かけていました。
最近の日常生活を思い返してみても、人がたくさん集まる場所に行くと、英語はもちろん、中国語や韓国語、その他の言語を耳にすることが、とても多くなってきました。居酒屋やコンビニに行っても、結構な割合で中国人の方など働いています。
先日、韓国映画の試写会に行ったときも、前に並んでいた三人組は、中国語で話をしながら、恐らく日本製だと思われる携帯をいじっていました。何だかよくわからないくらい、たくさんの文化が入り混じった状況を目の前にして、時代が変わったなあと感じずにはいられません。単一民族国家と言われてきた日本ですが、今後一層の国際化は、もはや免れられない現実なのでしょう。
数学者であり大道芸人でもある、ハンガリー出身のピーター・フランクルさんは、テレビ番組で、「真の国際化とは何でしょう?」と問われたのに対し、「外国人の親友を一人でも二人でも作ること」と答えていました。彼は、数学者として大変優秀なのはもちろん、論文を読み書きできるレベルで 11 カ国語を操り、様々な国で暮らしきた経験があったので、仰々しい国際論を聞くことになるのでは、と私は勝手に予測していました。
ですから、正直に言って、先の彼の回答には、いささか拍子抜けしてしまいました。一人か二人くらい外国の友人ができても、それで「国際的」と言うのはちょっとオーバーじゃないかと思ったのです。しかしながら、この言葉のミソは、“親友”というところにありました。
彼が言いたかったのは、外国生まれの通り一遍な友達などではなく、深く信頼できる本当の意味での“親友”だったのです。違う文化の中で育ち、それを身に付けた者同士が、互いにコミュニケーションしていくなかで、それぞれの違いや共通するものを理解し共有できること、あるいはそこまで互いに意志をやり取りすることこそが、本当の意味での国際化だと言いたかったのでしょう。
異文化を理解し受け入れること、もっと抽象化して言えば、他者性を肯定できるまで受容することが、国際化の本質だというのです。ただ単に横文字表記にしたとか、単純に多くの言語をしゃべれるとか、外国人の友達がたくさんいるとか、その友達が色々な国の人だといったことではありません。
あなたと私に大きく横たわる深い溝を互いに認識し、たった一本でもいいから、揺るぎない橋をかけようとすることだけが、国と国、文化と文化の違いを本当に越え得ると言えるのでしょう。しかもそれは、他人や世間がするだろうという人任せなものではなく、私個人の行為として行われなければならないのです。
こうして考えてくると、真に国際的な人というのは、語学が堪能だとか、外国経験が多いということではなく、他者との違いを無視したり、排除したりしない人と言えそうです。例えば同じ日本人同士だとしても、意見が合わない人や気が合わない人など、違うことだらけの人もいるでしょう。そのとき、すぐに考えや気持ちのやり取りを止めてしまうのは、今まで見てきた点から考えると、国際的とは言えないわけです。
相手の国籍にかかわらず、いつも互いを知り、信頼しようとする人こそ、本当の国際人と言えそうです。そうした意味では、私たちは外国の方と接していなくても、国際的な人間になることがきっと可能なのでしょう。「国際的」「国際化」などと言うと、すぐに外を向いてしまいがちですが、まずは自分の国や私たち自身の中身をよく見直すべきなのかもしれませんね。