とりかえし【取り返し】


大学では文学部だった私ですが、いわゆる文学と言われるものを読んだ経験は、人と比べてきっと少ない方だと思います。読書よりも、CDやラジオで音楽を聴く方が楽しかったので、もっぱらロックと言われる音楽ばかり聴いて暮らしてきました。

そんなわけで、例えば「詩」でも、文芸作品を読んだこともあまり多くはありませんし、強く感動したり影響を受けたりと言ったことも、残念ですがほとんどありませんでした。むしろ、ロックで歌われる歌詞の内容の方に、激しく揺れ動かされたりしていたのです。

スコットランドのグラスゴーで結成されたTRAVISと言うバンドのセカンドアルバム『The Man Who』も、私にはそういった体験を起こさせた一枚です。このアルバムの中に、“Why Does it Always Rain On Me?”という曲があり、その歌詞の一節が私に強烈な印象を与えました。

Why does it always rain on me?
(どうして僕にいつも雨が降りつけてくるんだ?)
Is it because I lied when I was seventeen?
(17のときに嘘をついたからさ)

これらの歌詞が、ミドルテンポで穏やかに伸びやかに歌われています。

17歳のときに嘘をついたからと言って、それが原因で雨が降りつづけるわけはありませんから、文字通り「雨降り」なのではなく比喩(暗喩)でしょうが、ここには、過去のもう取り返しのつかない行動に、人生を縛られてしまった人間の姿があります。

若かった頃にとった、恐らく軽はずみな態度か何かが、その後の彼の営みにずっと影を落としてしまっているのです。拭い切れそうにない哀しさが見え隠れします。

自分なりに「17歳」と言うときを思い起こしてみました。何もわかっていないのに、すべてを知っているかのように思い込んでいた頃。可能性に欠けることは全くない、と考えていた頃。自分はいつも正しいことをしているという恐れを知らぬ確信を持って。

そんな若くて未熟な時の行動が、将来の自分にずっとのしかかるとは、どうして気づくことができるのでしょうか。しかしそれでも、雨は彼に降りつけられ、もう取り返しがつかないのです。

私がこのことばの連なりに魅了されてしまうのは、このようなもう後戻りすることのできない、生きることの不可逆性とそれを受け入れざるを得ない現実を、すっぱりと切り取って見せてくれているからなのです。どうあがいても、人は生き直すことはできません。


てがみ【手紙】


先日、部屋の整理をしていると、たくさんの便箋と封筒、そして切手が出てきました。ずっと目にしていなかったので、すっかり忘れてしまっていましたが、一時は毎日のように手紙を書いていた時期があり、そのために準備し溜め込んだものでした。

高校を卒業して浜松で浪人生活を送ったときも、東京で予備校の寮に入って受験勉強をしていた親友と、手紙をやり取りしながら、互いに合格するよう励ましあったりしました。遠くに住んでいる友達には、電話代もばかにならないため、 今思い起こせば結構頻繁に手紙を書いていました。

しかし今では、携帯電話やパソコンから気軽にメールを送受信できるようになり、メールの使用はどんどんと増えています。仕事にも欠かせませんので、やり取りしている情報量や文字の量は、以前と比べ格段に多いと思います。それに反比例して、手紙を書くことは随分とまれになっていました。

確かに、メールであれば会社や自宅のパソコンから、思いついたらぱっと書けますし、携帯を使えばどんな所からでも、電車を待っているときなど、余った時間に送信できます。手紙のように、書くための場所や紙を準備する必要がなく、手紙をポストまで運ぶ手間もありません。

私はメールが好きですし、実際公私共にとても役にたっています。でも、部屋に残っていた封筒などを見ていたら、同じ文字でのコミュニケーション手段である手紙とメールとで、何かが大きく違っているように思え、とても不思議な感じです。

自分なりに考えてみたのですが、それはきっとことばの重みではないかと思いました。メールは便利で手軽なだけライトで、文体も含めカジュアルです。逆に、手紙は書くのに「よっこいしょ」という感じがある反面、じっくりと丹念に書くため、書かれたことばにはずっしりと気持ちが入っているようです。もちろん時によって、その反対もあるかもしれませんが、概ね当てはまるような気がします。

本来であれば、自らの思いを言語化するだけですから、どんな伝達方法でも違いが出ないのが道理でしょう。それでもやはり、人間は環境や手順にも左右されているのだと思います。キーボードとペン、ディスプレイと紙。相手に意志を伝えるまでの道筋が違えば、幾分その意志の表現にも違いが出てしまうのでしょう。

前述の通り、今では手紙を出したりもらったりする機会が、すっかり減ってしまいました。ですが、できるだけ気持ちのこもった手紙を書きつづけていければなあと思います。また、それだけでなく、さっと書くメールでも、じっくりとことばを選んで、気持ちがわかってもらえるメールにしたいとも思うのです。


つまり【詰まり】


「つまりさぁ~、こういうことだよ…」などと、話が長くなったり、複雑になると、話をまとめたり、要約する発言が出てくることは多いのではないでしょうか。それは、話し合っている人たちの理解を助け、共有するために行われています。

仮に「A。つまり、B」という文章であれば、「つまり」ということばの後は、Aを別のことばで言い換えたものです。AとBとの関係で言えば、方向性や内容は同一になります。いわば「=」や「≒」の働きをしていると言えます。AとBを並べることで、よりわかりやすくなったり、シンプルな表現になり、深く理解できるのです。

ことば本来の意味や働きとしては、上の通りだと思うのですが、実際に使われる場面においては、そうとばかりは言えないかもしれません。学校の授業、仕事での説明、会議や議論の中で、「つまり」は必ずしも“つまって”ばかりはいないように感じます。

「つまりは…」と言われても、ちっとも話がつながっていなかったり、ひどい時には前後で話が逆になっていたりします。そんな時には、話全体の流れや文脈から類推して、その人の言いたいこと、主張を類推するしかありません。

本来は、詳しい説明やまとめるための「つまり」が、かえって話の筋を曲げてしまい、わかりづらい、難解なものにしてしまうのです。皆さんも、そういった経験をしたことが少なからずあるのではないでしょうか。

また、人によっては「逆に、…だ。」という表現をよく使う方もいます。これも本来は話の転換ですが、話の向きを変えるといよりも、相手の話をさえぎり、優位に立つためだけに使われている場合も少なくありません。

そのため、話の筋道があいまいで、「逆に、… だ。逆に、… だ。」と「逆に」を連発して、意見の方向性がくるくる回っているようで、本当に何を言わんとしているのか、理解に苦しむこともあります。

接続の表現は、概して短いものですが、話や文章全体のまとまりや方向付けを左右するような重要な力を持っています。そのことばによって、言いたいことが伝わったり、伝わらなかったりするものなのです。

日本語は論理的なことばではない、とよく言われますが、私はそんなことはないと考えています。自分の主張する論理展開に合った接続表現を使用してやれば、きちんと論理的な思考を表現できると思うからです。

つまり、論理的な話や文章には、正しい接続表現が欠かせません。