けいけん【経験】
ある日の我が家の夕食は、キムチ鍋とカツオのたたきでした。当初、カツオのたたきは予定にはなかったものの、スーパーに買い物に行った父親が、安かったからと買ってきて、食卓に並べられることになったのです。キムチ鍋が煮える前に、私は薬味をたくさんふりかけられたたたきを、まず口にします。安売りのカツオだとは言え、なかなかにおいしく、冷えたビールにもあっており、私は父にそっと感謝しました。
そう言えば、少年だった頃の私は、魚の生ものはあまりおいしいとは思えず、唯一食べる刺身と言えば、イカとタコくらいで、それも淡白な味だからでした。両親や兄が、マグロやタイなどのいわゆる高級魚の刺身をおいしそうに食べる姿を見ては、ちょっと不思議な気持ちになり、時に自分でも試しに食べてみるのですが、やはり彼らの味覚を理解できずに終わっていました。
こうしてたまにではありますが、苦手な魚の刺身を食べたりしているうち、自分でも気づかぬまま、私はマグロやタイを食べられるようになっていました。さらに、食べられるようになっただけではなく、むしろ大変おいしいと感じ、自ら好んで食べるようになったのです。
刺身が好物になったので、食べる機会も断然多くなり、このマグロは高いからおいしいなあとか、このタイは安い割にはまあまあかな、この店のイカは高いけど古いからかおいしくないぞ、などと色々品評できるようにもなりました。要するに、経験を積み重ねるうちに、刺身の良し悪しを、それなりに理解できるようになったわけです。
「たくさんの経験をすることはよいことだ」といった主旨の発言を聞くことは、少なくないと思います。世間一般でも、そうした認識が、随分浸透しているように感じます。「やらないよりやった方がよい」であったり、「経験になるから、とりあえずやっておけ」であったり、様々な場面で「経験する=よいこと」という論理に出会います。
確かに、先述の刺身のように、経験を重ねたおかげで身につくことを、否定するわけではありません。それでも、経験すればするほど、必ず我々は賢くなってゆき、それについて知っていけると言えるのでしょうか。私は「経験に比例して、きっと物事の理解が高まる」という考えに、あまり同意できない気持ちがあります。
私がここでむしろ述べたいのは、経験にも「意義深い経験」と「意味のない経験」があるのではないか、ということです。もし経験の数こそが理解を促進するのであれば、経験豊富な年配の方のみが正しく評価できることになります。若者や幼い人など経験が少ない者の判断は、いつも欠けているということになってしまいます。これでは、あまりに単純で、不自然な思考と言ってもよいでしょう。
メジャーリーガーのイチローや、セリエAの中田は、それぞれの競技で、若くしてトップの座をつかんでいました。彼らの活躍は、単純な経験の多さだけが結果を導くものではないことを、示してくれているようです。中田などは、高校生の頃から、自分たちの行う練習の意味や効果をよく考え、理解しようとしていました。そのため、たびたび監督に相談したり、時には食ってかかったりしていたそうです。また、漫然と練習しているチームメートに、容赦なくその態度を改めるよう指摘をしていたとも聞きました。
イチローも、誰よりも負けぬほど、人一倍練習していますが、きちんと目的を定めた鍛錬をしているようです。彼らが一流と呼ばれているのも、“ありふれた経験”ではなく、“一流の経験”を積み重ねたからではないでしょうか。
われわれは生きて行く中で、多くの経験をしています。朝起きて歯を磨き、電車で通勤し、職場や学校で多くの人に会います。自分の趣味も楽しむでしょうし、偶然に人とぶつかるかもしれません。もちろん、一生をかけて成し遂げようと、何かに努力しているかもしれません。
こういった一つひとつの経験を、ただ漠然と経験するのと、ことの本質を掘り下げようとする経験とでは、大きな違いを生むのだ、と私には思えます。ですから私は、経験の量だけを誇るのでなく、経験の質にこそ気を払いたいと常々思っているのであります。