しんじん【新人】


幕張に引っ越してから、もう5年以上経つのですが、そのときからずっと髪を切ってもらっている理容室があります。不慣れな場所だったので、どこの床屋さんがよいのかも知らず、何となく目に付いたところに入りました。店内は明るく、やけに愛想がよく、カットの腕も結構上手に感じたので、そのままずっと今も通っているのです。

3月は卒業もありますし、異動などが集中する時期だと思いますので、やはり別れの季節なのでしょう。その次の月である4月は、入学や入社などがありますから、新品の学生服や着慣れていないスーツ姿を多く見かける時期だと思います。いわば新人さんの季節と言えるかもしれません。ですから、もうちょっとすれば、ちまたは「新人の季節」となるわけですね。

何月だったかはあまりよく覚えていないのですが、確か2~3年前、先にいった理容室にある日散髪しに行くと、新人さんらしき「佐藤さん」という女性が配属されていました。この店は、千葉県内に何店舗かもつチェーン店で、人の循環も多く、急に馴染みの店員さんを見かけなくなったり、また再会したりしていたので、最初はさして気にすることもなくいました。

その日も、何度も切ってもらっていた方に、いつものように髪を切ってもらっていたのですが、いつしかコロコロとした体格の新人佐藤さんが、何気なくではありますが気になり始めました。というのも、お客さんへかける声も、何だか子どもじみた舌足らずな話し方ですし、背が小さいせいもあり、急いで動くとテキパキというよりも、ドタバタした印象を与えていたからです。

新人さんですから、当たり前と言えば当たり前なのかもしれませんが、何事もあまり器用にこなせないようで、素人の私から見ていても、大丈夫かなあと心配させる状態でした。そんな具合ですから、店長を初め、周りの先輩の方々も彼女の仕事振りをしきりと気にしているようでした。

2カ月くらい経って、また散髪に出かけたところ、はたして彼女はいました。そして私には 、以前と変わらぬ仕事振りに見えました。しばらく経っているのに、あまり進歩がないように感じたのです。そのせいか、周りの同僚も厳しく接しているようで、何となく店内の雰囲気も殺伐としたところがありました。

その次のときは、営業時間中、お客さんのいる前で、店長に怒られていました。「やる気があるなら、きちんと行動で示さないとダメだ」と、もっともなお叱りを受けていたのです。私の背中で説教は行われていて、鏡に彼女の姿は映っておらず見えませんでしたが、きっとうなだれていたのではないでしょうか。

そんな佐藤さんでしたが、何度か行くうちに、髪を洗ってもらったり、顔を剃ってもらうようになりました。やはり何だかたどたどしいところはありましたが、経験を積んでいくうちに、少しずつではありますが、しっかりしてきたと思えるようになっています。

さらに、半年くらい前に散髪に行くと、今までならカットの準備作業までしかしなかった彼女に、とうとう私の髪を切ってもらうことになりました。昔から佐藤さんを知っている私は、いくら成長を肌で感じていたとはいえ、正直なところ、緊張してしまいました。

素早い鋏さばきとは言えませんが、ふっくらとした手を着実に、一生懸命に動かし、私の伸びた髪が少しずつ整髪されていきます。仕上がりも、思っていたほど悪い出来ではありませんでした。というよりも、他の人以上に上手に切ってもらえたように感じたのです。

理容師さんの上手下手は、髪が伸びたときにわかると思っています。理容室で切ったときは、ブローや整髪料でごまかすことも可能だと思いますので、伸びたときでもまとまりやすく、整えやすく切るのがプロの力量であり、技だと思うのです。そういう意味で、佐藤さんのカットは、不思議と長持ちしますし、結構いつまでもまとめやすいのです。

ついこの間も、私は髪を切ってもらいました。たまたまですが、佐藤さんです。あの舌足らずな感じやスマートに動けない振る舞いは健在ですが、私は安心して切ってもらいます。むしろ、佐藤さんに切ってもらえてうれしいと思うようになっていました。

初めて見たときの佐藤さんは、本当に何も上手くできない新人さんだったと思います。注意ばかりされていた時期もあったと思います。それでもきっと、彼女は努力していたのでしょう。だからこそ、こうして1人ではありますが、たった1人かもしれませんが、お客さんに好かれる存在となったのではないでしょうか。これからも佐藤さんの成長を、出来るだけ見ていきたい、と考えています。


さがす【探す・捜す】


例えばインターネットや e メールが、何かの都合で使えなくなったりしたら、大変困ってしまう人は、思いの外多いのではないでしょうか。

少なくとも私などは、毎日インターネットを利用して、仕事に必要な情報を収集したり、プライベートな情報のやり取りにも使用したりしていますから、今、私からインターネットを取り上げられてしまうと、仕事は滞り、生活も暮らしづらくなり、ライフスタイルの大幅な変更を強いられてしまいます。

最近の調査によると、日本でのインターネット人口は、5000万人を超え、普及率も40%以上だそうです。単純に考えても、老若男女問わず大体二人に一人は、インターネットユーザーになるわけです。

これだけインターネットが普及したのには、いくつも理由があると思うのですが、1つの大きな要因に、情報量の豊富さがあると思います。豊富と言うよりも、むしろ過剰と言った方がよいかもしれませんが、それくらい、インターネットには情報があふれています。

試しに自分の会社名を、 Yahoo!やGoogleで検索をしてみると、約5000件のヒットがありました。このヒット件数の全内容を確認しようとすると、どれくらいの時間が必要なのでしょうか。

きっと、1日中パソコンの画面を見ていても、読み終わらないのではないかと思えます。もちろん、その検索結果は、玉石混交と言えるとは思いますが、人間1人で処理できる情報量を大幅に超えていると思われます。

また電子的な情報だけでなく、既存の紙媒体でも既に出版された書籍は、現在手に入るものだけで約70万タイトルにも上り、毎日200冊くらいの新刊が刊行されていると言います。日々、印刷された情報が、すごい勢いで増え続けているわけです。

このような状況ですから、関連するすべての本に目を通し、内容を理解した上で、その中身の良し悪しを判断すること、そこから仕入れた情報を全部頭の中に蓄積し、適宜必要に応じてきれいに提示することは、ほとんど無理と言えるでしょう。しているように見えたとしても、それはすべての情報を網羅しているとは、とても言えないと思います。

「受験」を代表とする学校教育では、教科書を読んで知識を記憶し、それを試験などの場で諳んじられるかどうかばかりを重視されているように感じます。まだまだ、教育とは知識を習得させることで、優秀な人間とは知識を保持し出力できる人と認識されているようです。

もちろん知識や情報を持っていることは、優れた能力と言えるでしょう。しかしながら、先程も申し上げた通り、現代は大量の情報があふれ、しかも速いスピードで膨張しています。これらすべてを1人で把握し、コントロールしようとするのは、人間の限界以上の行為だと思うのです。

少なくとも、益々グローバル化が進み、混沌としているビジネスの現場などでは、何でもわかる人などはいなくなっております。何にでも即答できる人や、ゼネラルな回答ができる人が、今後求められる人材と言えるのでしょうか? 何故なら、そういった人たちは、情報全体をハンドリングしているとは言いがたいからです。

今持っている知識や情報だけで判断する人ではなく、むしろ新しい情報、変更された知識を、必要とあらばいつでも探し出せる人の方が、これからの世界で活躍するように思えます。これまででは考えられなかったほど大きい“情報の山”を目の前にして、そこからいかに有用な情報を抜き出すかという技術や知恵を持った人間です。

それについて詳しい人を知っているといった人脈の広い人や、キーワードをうまく設定できるサイト検索の達人、各書店の得意分野と不得意分野を熟知していて欲しい本を素早く的確に買える人、こういった人たちの方がより重要性を増すのではないでしょうか。「知る」ための方法を知っていること、つまり情報を「知る」のではなく、「探す」ことこそに力点は動いているように思えます。


こくさいてき【国際的】


ついこの間、久しぶりに新宿南口にある高島屋に行って、ちょっとした変化に気づきました。エスカレーターを乗り降りするところにあるフロアの案内板が、「 7F :紳士服・ネクタイ・紳士雑貨・紳士靴」のような日本語だけでなく、英語、中国語、韓国語でも書かれていました。

以前はどうだったのかという明確な記憶はありませんが、少なくとも中国語と韓国語は無かったと思いますので、ここ最近の内に新しく作られたのでしょう。そういえば、このデパートで中国の方や韓国の方が買い物をしている姿を、私も何度か見かけていました。

最近の日常生活を思い返してみても、人がたくさん集まる場所に行くと、英語はもちろん、中国語や韓国語、その他の言語を耳にすることが、とても多くなってきました。居酒屋やコンビニに行っても、結構な割合で中国人の方など働いています。

先日、韓国映画の試写会に行ったときも、前に並んでいた三人組は、中国語で話をしながら、恐らく日本製だと思われる携帯をいじっていました。何だかよくわからないくらい、たくさんの文化が入り混じった状況を目の前にして、時代が変わったなあと感じずにはいられません。単一民族国家と言われてきた日本ですが、今後一層の国際化は、もはや免れられない現実なのでしょう。

数学者であり大道芸人でもある、ハンガリー出身のピーター・フランクルさんは、テレビ番組で、「真の国際化とは何でしょう?」と問われたのに対し、「外国人の親友を一人でも二人でも作ること」と答えていました。彼は、数学者として大変優秀なのはもちろん、論文を読み書きできるレベルで 11 カ国語を操り、様々な国で暮らしきた経験があったので、仰々しい国際論を聞くことになるのでは、と私は勝手に予測していました。

ですから、正直に言って、先の彼の回答には、いささか拍子抜けしてしまいました。一人か二人くらい外国の友人ができても、それで「国際的」と言うのはちょっとオーバーじゃないかと思ったのです。しかしながら、この言葉のミソは、“親友”というところにありました。

彼が言いたかったのは、外国生まれの通り一遍な友達などではなく、深く信頼できる本当の意味での“親友”だったのです。違う文化の中で育ち、それを身に付けた者同士が、互いにコミュニケーションしていくなかで、それぞれの違いや共通するものを理解し共有できること、あるいはそこまで互いに意志をやり取りすることこそが、本当の意味での国際化だと言いたかったのでしょう。

異文化を理解し受け入れること、もっと抽象化して言えば、他者性を肯定できるまで受容することが、国際化の本質だというのです。ただ単に横文字表記にしたとか、単純に多くの言語をしゃべれるとか、外国人の友達がたくさんいるとか、その友達が色々な国の人だといったことではありません。

あなたと私に大きく横たわる深い溝を互いに認識し、たった一本でもいいから、揺るぎない橋をかけようとすることだけが、国と国、文化と文化の違いを本当に越え得ると言えるのでしょう。しかもそれは、他人や世間がするだろうという人任せなものではなく、私個人の行為として行われなければならないのです。

こうして考えてくると、真に国際的な人というのは、語学が堪能だとか、外国経験が多いということではなく、他者との違いを無視したり、排除したりしない人と言えそうです。例えば同じ日本人同士だとしても、意見が合わない人や気が合わない人など、違うことだらけの人もいるでしょう。そのとき、すぐに考えや気持ちのやり取りを止めてしまうのは、今まで見てきた点から考えると、国際的とは言えないわけです。

相手の国籍にかかわらず、いつも互いを知り、信頼しようとする人こそ、本当の国際人と言えそうです。そうした意味では、私たちは外国の方と接していなくても、国際的な人間になることがきっと可能なのでしょう。「国際的」「国際化」などと言うと、すぐに外を向いてしまいがちですが、まずは自分の国や私たち自身の中身をよく見直すべきなのかもしれませんね。