【1月31日】孟子:前372~前289
人皆人に忍びざるの心有りと謂う所以の者は、今、人乍に孺子の将に井に入ちんとすれば見れば、皆怵惕惻隠の心有り、交を孺子の父母に内ばんとする所以にも非ず、誉を郷党朋友に要むる所以にも非ず、其の声を悪みて然るにも非ざるなり。(「公孫丑上」)
誰にでもこのあわれみの心はあるものだとどうして分かるのかといえば、その理由はこうだ。たとえば、ヨチヨチ歩く幼な子が今にも井戸に落ちこみそうなのを見かければ、誰しも思わず知らずハッとしてかけつけて助けようとする。これは可愛想だ、助けてやろうとの一念からとっさにすることで、もちろん助けたことを縁故にその子の親と近づきになろうとか、村人や友達からほめてもらおうとかのためではなく、また、見殺しにしたら非難されるからと恐れてのためでもない。
『孟子』(上)、小林勝人訳注、岩波文庫、1968年
【アタクシ的メモ】
自然の善意についての記述だろうか。ここでは「忍びざるの心(あわれみの心)」と表現されている。