「僕」による温かな主観【ブラッドベリ1000日チャレンジ#0065】


【短編小説】ミス・ベル・ランキン/トルーマン・カポーティ
ミス・ベルの視点で書かれた部分もあるが、「僕」からの目線で書かれているのがヨイと思った。客観的すぎず、少し温かな主観が入ることで、かえってミス・ベルの人となりが冷静に理解できたのではないだろうか。ミス・ベルがひとり命を落とすシーンは、哀しくも、美しい描写だと感じた。

【詩・俳句・短歌・歌詞】伝説/会田綱雄
何度も読んだが、何とも理解できた気がしない。環境や人類のサイクルについての詩のような気もするが、ロジカルな表現はほとんどないため、雰囲気でしか把握していないのだろうと思う。湖、蟹、 わたしたら、ちちははなど、繰り返しキーワードが出てくるが、どういう関係性にあるのかが分からないのである。

【論考】「待つ」ということについて/森本哲郎
私は、待つことも、待たせることも苦手だ。病院などいつ呼ばれるか分からないまま座っているのは嫌だし、待ち合わせに遅刻して誰かを待たせるのはもっと嫌である。ただ「人生とは待つことなのです」という発言を聞いて、確かにとも思った。何かの到来を期待していなければ、私たちの人生に変化が起きないからである。


ディケンズ【『一日一文 英知のことば』から学ぶ#038】


【2月7日】ディケンズ:1812.2.7~1870.6.9

茫然とした幼児期を、はるか遠く振り返ってみると、まず目の前にはっきり浮かんでくるのは、綺麗な髪をして若々しい容姿の母さんと、容姿などあったもんじゃないし、目の玉が真っ黒けだったから、目のあたり一面が黒ずむんじゃないかと思えるほどだったし、頬っぺたも腕もぱんぱんに固くて真っ黒だったから、小鳥だって、リンゴよりこっちの方をつっ突くんじゃないかな、と思ったペゴディーの姿だった。

『デイヴィッド・コパフィールド』(1)、石塚裕子訳、岩波文庫、2002年

【アタクシ的メモ】
この『デイヴィッド・コパフィールド』は、ディケンズの長編小説。ペコディーは、コパフィールドの乳母のようだ。作者の自伝的な要素も強いとのこと。


盗みの告発だけで終わるストーリー【ブラッドベリ1000日チャレンジ#0064】


【短編小説】ヒルダ/トルーマン・カポーティ
どうしてヒルダは盗みをはたらいてしまうのか。理由は分からないものの、盗んだこと自体は事実のようだ。ただ、物語はその告発だけで、唐突に終わってしまう。さらに、盗難の嫌疑をかけられた場所でも、盗みを繰り返してしまっているようだ。なぜ盗むのか、盗んだものをどうしているのか、そうしたことはー切書かれていない。ましてや、この短編小説のメッセージも不明確なままであるが、それがかえって読み手の頭や心の中をかき乱し、考えさせられるのだ。

【詩・俳句・短歌・歌詞】祝 婚歌/吉野弘
どこかに強い言葉があるわけではなく、ある意味とても淡々としている。それでも、自分が十五年以上の結婚生活を経たうえで読むと、とても正しいことを言っていろように感じる。とは言え、やや抽象的すぎるなという印象もあった。そうした点では、やや読み手に伝わりづらいのではないだろうか。

【論考】沙漠について/森本哲郎
筆者は「沙漠は精神の原点、魂の出発でもあります」と言うが、沙漠を体験したことのない人間からすると、やや偏りのある発言に感じる。もちろん、人間の思考は環境によって大きく左右されるとは思うが、身近に沙漠はなく、日々を生活をしている自分は、精神の原点を確認したり、回帰できないことになってしまうのだろうか。


クリムト【『一日一文 英知のことば』から学ぶ#037】


【2月6日】クリムト:1862.7.14~1918.2.6

真の芸術と真の芸術家はどんな口実で攻撃されてもかまわない。保護されるのはいつもまやかしの弱い芸術なのだ。真面目な芸術家たちに対し、多くの干渉がなされた。私は今ここにそれをあげつらう気はないが、いつの日かそれについて語るかもしれない。私は彼らの主張に対抗し、その槍をへし折ってやりたい。

フランソワーズ・デュクロ『クリムト』新関公子訳(『岩波 世界の巨匠』第II期、岩波書店、1994年より)

【アタクシ的メモ】
自分自身が創り出す芸術作品への強い自信や信念が感じられる。クリムトは「生と死」「エロス」というテーマで作品を創っていたようだが、当時の美術界は保守的で、彼のようなテーマを持った画家には苦境の時代だったそうだ。


至福とは?【ブラッドベリ1000日チャレンジ#0063】


【短編小説】水車場の店/トルーマン・カポーティ
余韻のある一篇だった。水車場の売店の女性が、蛇に咬まれた少女を助けるだけの物語とも言えるが、女性の過去を連想させる部分もあり、それが読者の頭の中に広がりを持たせるのだろうか。カポーティはまだ2作目だが、すでに癖になっている。

【詩・俳句・短歌・歌詞】鳩/高橋睦郎
一読、二読では、ちょっとよく分からなかった。自分の読解力のなさが、恨めしい。解説的なnoteを読んで、書かれていることがやっと分かった。鳩を介しているが、「あのひと」と「あたし」の恋類様。もしかしたら、道ならぬ恋なのかもしれない。ただ、軽快なやり取りがユーモラスで、湿った感じがないのが救いである。

【論考】ふたたび、至福の世界について/森本哲郎
筆者は、我れを忘れて没頭できる、つまり忘我が、幸福だという。しかし、私自身は体験的に、至福とは自分自身を含め、すべてが肯定されている瞬間ではないかと思っている。自己も他己も、目の前にある存在すべてが、世界から肯定的に捉えられ、歓迎されている必要があるのではないか。そうした意味では、筆者の考えとは平行線である。


ホフマンスタール【『一日一文 英知のことば』から学ぶ#036】


【2月5日】ホフマンスタール:1874.2.1~1929.7.15

絵から絵へと眼を移しながら、ぼくはある何かを感じることができた。形象と形象とが交互に入りまじり、並びあい、色のうちに形象の奥にひそむ命がほとばしり、色と色とが互いにいかしあい、あるときにはひとつの色がふしぎに力強くほかの色すべてを支えているのが感じられた。そして、あらゆるもののうちに、ひとつの心、ひとつの魂、絵を描いた人間の魂、絵を描くことによって、はげしい懐疑から生じる硬直性痙攣に対してこのヴィジョンをもって答えようとした男の魂を、見てとることができた。(「帰国者の手紙」)

『チャンドス卿の手紙 他十篇』檜山哲彦訳、岩波文庫、1991年

【アタクシ的メモ】
引用は、1901年、アムステルダムでまだ無名のゴッホの絵を見ての印象を述べた件だそう。ホフマンスタールは、既にゴッホを見い出していたということなのだろうか。


想いと行動は一致するとは限らない【ブラッドベリ1000日チャレンジ#0062】


【短編小説】分かれる道ノトルーマン、カポーティ
ティムの十ドルがなくなる(十ドルは現在の換算でいうと、20~30万円くらいか)。一緒にいるジェイクが取ったのか。物語は、ジェイクが最行の握手の際に、十ドルを渡すことで幕を閉じる。事実は分からない。ジェイクは脅かしただけなのか、餞別として自分の金て渡したのか。それぞれの行動と想いが錯綜している様子が、短い文章の中に凝縮していた。

【詩・俳句・短歌・歌詞】なのだソング/井上ひさし
文末がすべて「のだ」なので、リズミカルだし、ユーモラスな感じも出ている。ただ、それぞれ断言されているものの、作者のメッセージや意図が見えないため、読み終って「だから何?」と思てしまった。残念ながら、アイデアありきの詩に読めてしまった。

【論考】至福の世界について/森本哲郎
「子供だけが持ち得る純粋な世界が、ほんのわずかな時期だけ許される至福の世界だ」という筆者の主張に、私自身は賛同できない。自身の経験的にも違っているし、子供だけが純粋無垢だとは思いわない。至福は純粋さによってもたらされることもあれば、そうでないこともあるだろう。少し定型的すぎる考えではないか。


プレヴェール【『一日一文 英知のことば』から学ぶ#035】


【2月4日】プレヴェール:1900.2.4~1977.4.11

三本のマッチ 一本ずつ擦る 夜の中で
はじめはきみの顔を隈なく見るため
つぎはきみの目を見るため
最後のはきみのくちびるを見るため
残りのくらやみは今のすべてを思い出すため
きみを抱きしめながら。
(「夜のパリ」)

『プレヴェール詩集』小笠原豊樹訳、岩波文庫、2017年

【アタクシ的メモ】
夜の暗闇と炎の小さな明かり。段々とミクロな視点に移行していき、最終的には視覚ではなく、心の中に回帰する。温かな感触とともに。


年齢を重ねでも、初々しさを忘れない【ブラッドベリ1000日チャレンジ#0061】


【短編小説】要求/星新一
殺人計画を立てる男の話から始まるが、UFOの到来とともに、地球は異星人の毒舌と恐るべき攻撃にさらされることに。そして、厳しい要求に世界全体で応えようとしたことで、地球は大きく変化していく。結局、男も殺人などバカバカしくなるほど平和な世の中になり、ある意味で倒錯した状況になってしまうのだ。読者としては、そのねじれた感じが心地よかった。

【詩・俳句・短歌・歌詞】汲む/茨木のり子
回顧録のような、先達へのお礼の手紙のような詩である。筆者は「私はどきんとし」と書いているが、読んだ私も一緒にどきんとしたというか、心に深く届いたというか。「初々しさが大切なの/人に対しても世の中に対しても」という言葉を聞いて、初心に帰りつつ、何ともホッとしたのだった。

【論考】ふたたび「風流」について/森本哲郎
筆者の主張は、「風のなかに自分の魂の声をきくこと、それがほんとうの風流だ」ということのようだ。そうだと思う部分もあるが、「魂の声」や「風流」が十分に議論されていないようにも感じる。風に関する俳句や歌、エピソードが数々語られるが、むしろ理由や論理を語ってもらいたかった。


福沢諭吉【『一日一文 英知のことば』から学ぶ#034】


【2月3日】福沢諭吉:1834.12.12~1901.2.3

私が江戸に来たその翌年、すなわち安政六年、五国条約というものが発布になったので、横浜は正しく開けたばかりのところ、ソコデ私は横浜に見物に行った。その時の横浜というものは、外国人がチラホラ来ているだけで、掘立小屋みたような家が諸方にチョイチョイ出来て、外国人が其処に住まって店を出している。其処へ行ってみたところが、一寸とも言葉が通じない。此方の言うこともわからなければ、彼方の言うことも勿論わからない。店の看板も読めなければ、ビンの貼紙もわからぬ。何を見ても私の知っている文字というものはない。英語だか仏語だか一向にわからない。

『新訂 福翁自伝』富田正文校訂、岩波文庫、1978年

【アタクシ的メモ】
至極当たり前の話しではあるが、言葉が通じなければ、理解は進まない。一方で、未知の環境に積極的に飛び込み、自身の無知を自覚することが重要なのだろう。